新書「甲子園球場100年史」を読了
KAWADE夢新書の「甲子園球場100年史」工藤隆一著を読みました。
シーズン中は阪神タイガースに関する本は読まないでおこうと決めていたのですが、
まぁこれは阪神タイガースの本拠地であることは事実ですけど
いちおう阪神タイガースに関する本ではなくあくまでも甲子園球場についての本ですし、
その甲子園球場が今年(の8月1日)で100年目を迎えるということなので
タイムリーに読まないわけにはいきませんよね。
で、まぁ本書の「はじめに」ではいきなり昨シーズンのタイガースの日本一の話から始まるのですが
かといって本書は阪神タイガース一辺倒の流れで書かれているわけではなく
むしろ甲子園と言えば高校野球という方に主軸が置かれているように感じます。
実際に甲子園球場は高校野球、当時は中等野球でしたけど、それを開催するために造られたんです。
というのもボクは認識がなかったので少し驚きでしたけど。
その中等野球も次のように朝日新聞が主導する形で進んだようです。
(以下引用)
一般的なスポーツ大会は、当該の連盟なり協会が先にあって、新聞などのメディアはそれに
協力するかたちになるのだが、この「中等野球」はすべて大阪朝日新聞がお膳立てを行なった、
新聞社が主導する大会だった。「連盟」は後からつくられたのである。 (引用終わり)
あぁ、それでいまだに朝日新聞&テレビ朝日は高校野球の報道に力を入れているってわけですか。
もちろん、それは新聞発行部数を増やすためのビジネス上の狙いからなんでしょうが。
でも、なんで朝日新聞が主導するのに関西の甲子園なの?と疑問にも思ったら……
(以下引用)
現在は両紙とも東京のイメージが強いが、朝日新聞は1879(明治12)年に大阪で第1号
が発行された。東京に進出するのは1888(明治21)年で「めざまし新聞」を買収して「東
京朝日新聞」としたのがスタート。このとき、大阪で発行していた朝日新聞は「大阪朝日新聞」
となったのである。 (引用終わり)
そうなんだ、朝日新聞って元は大阪だったんだ。
ちなみに、「両紙」となってるもう一方は毎日新聞のことです。
そこで、どうしてその中等野球が甲子園球場で開催されるようになるか、
というより中等野球のために甲子園球場が造られるようになったのかについては、
いろいろと紆余曲折があったもののそこには阪神vs阪急の熾烈な競争の結果ということだそうです。
それそのものについてはややこしい話もあるしネタバレにもなるのでここには書きませんが、
まぁでももちろんこれも鉄道乗客数増加、つまりビジネス上の狙いということになりますね。
甲子園球場建設についての話もちょっと今では信じられないことですが、少し紹介しましょう。
(以下引用)
同じ年の11月28日、野田が作成した新球場の設計図が阪神電鉄の取締役会に諮られ、ゴーサ
インが出される。(中略)
阪神電鉄にとっての最大の課題は時間だった。何としても翌1924(大正13)年の第10回
全国中等学校優勝野球大会に間に合わせなければならない。(中略)
当時「東洋一」といわれた大運動場を短期間でつくり上げなければならないプレッシャーを
もっても強く感じたのは、おそらく施工を請け負った大林組だったに違いない。地鎮祭が行な
われたのは1924年3月11日。5日後の3月16日には起工式が行なわれ、いよいよ新球場の
建設が始まった。
完成までに与えられた期間は、わずか4か月半である。 (引用終わり)
いやぁ4年半なら納得だけど、そんな数ヵ月で出来るもんなんて驚きでしかないし、
その後いろいろと補強・増築などしてるとは言え100年も使われるとはねぇ。
なお、上記引用部分にも「大運動場」と書いてありましたが、事実当時の正式名称は
「甲子園球場」ではなく「阪神甲子園大運動場」だったのだそうです。
(以下引用)
それは野球場としてだけではなく、陸上競技場や球技場としても利用されることを念頭に置
いていたからである。(中略)
そのようないきさつもあって、こけら落としは野球ではなかった。大阪と神戸のあいだに位
置する150あまりの小学校から選抜された男女2500人あまりの“選手”たちが、徒競走
などを競った「阪神間学童運動会」だった。観客席には子供たちの保護者約1万人が詰めかけ
たという。 (引用終わり)
なかなかほのぼのとした感じが伝わってきますねぇ。まぁ今の甲子園は野球専門の球場ですけど。
そんなこんなで出来た甲子園球場ですが戦中・戦後は無事ではなかったようで、
その頃の次のような話も紹介しておきましょう。ちょいと長いですが。
(以下引用)
何事も軍事が優先される時代になったので、甲子園球場ものんびり構えてはいられなくなっ
た。川西航空機が製造した飛行機の整備エリアとして使われるようになったほか、外野は軍用
トラックの駐車場、レフトスタンドはベアリング工場、ライトスタンドは、職能の実務教育と
軍事教練を併せ持つ阪神「青年学校」となった。
三塁側アルプススタンドの下の温水プールは潜水艦のソナー(音波探知)装置を開発するた
めの水中音波研究所になり、一塁側アルプススタンド下の体育館は川西航空機の倉庫として使
われるようになっていた。(中略)
大鉄傘の取り外しは8月6日から徐々に始まり(中略)
解体作業は11月中旬まで行なわれ、100トン余りの
鉄は神戸製鋼に9万円で売却されたという。(中略)
そして、1945(昭和20)年になると、いよいよ日本全体が深刻な食料不足に陥り、つい
に内野は芋畑になってしまうのである。球場の各部屋は軍人や軍属に占有され、ほぼ軍の施設
と化した。
そんななか、終戦目前の8月5日から6日未明にかけ、都合5度目の西宮大空襲に見舞われ
る。米軍爆撃機が落とした焼夷弾によって、一塁側アルプススタンドから外野にかけては火事
になり、濃緑色に茂っていた自慢の蔦もすべて焼け焦げてしまったのだった。(中略)
終戦から50日を経過した10月5日、阪神電鉄の職員が一生懸命に芋畑を元に戻していた甲子
園球場に、突然アメリカ軍の将校がジープに乗ってやってきた。この日から甲子園球場はアメ
リカを中心とする連合国占領軍に接収されたのだった。 (引用終わり)
戦時中の話は今の常識では信じられないようなことばかりではありますが、
それでも取り壊されなかった、あるいは壊滅されなかったことは幸いとしたいいようがないかな。
それにしてもアルプススタンドの下に温水プールと体育館があったのも知りませんでしたけど(汗)
今は室内練習場になっているそうですが。
という感じで、知らないことがたくさん書いてあり、
もちろん、甲子園100年史なのでそのうちの半分くらいはボクが物心つく前のことですから
知らないのは当然のことなのですが、
それでも比較的最近のことでもなかなか興味深いことが盛りだくさんという感じで
高校野球ファン、阪神タイガースファンとしてはかなり楽しめた一冊でした。
まぁ雑学のたぐいといえばそれまでなんですけどね。
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