単行本「火の玉ストレート」藤川球児著を読了
日本実業出版社の「火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟」藤川球児著を読みました。
(ファン以外の方には申し訳ないが、前回紹介本に続きまだまだタイガース関連本祭り最中です)
この本は、こちらの記事で書いたように買ってきて読み始めてたら
途中のページが悪戯で何か所も破られいたので新品交換してもらったという本です。
藤川球児氏への憎悪によるものというより、通り魔的な愉快犯みたいなもののようですが、
なんにしても許されることではないのですけどね。
さて、藤川球児氏と言えばその投げるホップするようなストレートは
「火の玉ストレート」と称されるほどのものなのですが、
そう呼ばれるようになったエピソードは本書の「プロローグ」で次のように書かれています。
(以下引用)
僕のストレートは、打者の手元で浮き上がるといわれた。
「火の玉や」
あのとき、清原和博さんが三振に倒れたあと、僕のボールをそう表現してくれた。以来
僕のストレートは「火の玉ストレート」と呼ばれるようになった。 (引用終わり)
清原氏がどんなことから「火の玉」と言ったのかまでは分かりませんが、
まさか人が亡くなった時に出てくる火の玉(人魂)のイメージではないでしょうから
隕石落下などの火球のイメージなんでしょうかねぇ。
それともスバル・ジャスティ(初代)のキャッチコピー「火の玉ボーイ」からの連想?
ってことはジャスティの速さや年代からしてもあり得ない話でしょうけどね(笑)
なんにしても清原氏が言いだしっぺだったとは知りませんでした。
ただ、面白いのはその「火の玉ストレート」そのものの誕生について藤川氏自身は、
いかに故障をしないように投球フォームを修正したことと、
意外にも歯の「咬合の矯正」によって生まれたと分析しているようです。
スポーツ選手にとって歯は命、噛みあわせは重要とは言われますが、まさしくそういうことなのでしょう。
でも、さらに面白いのは「咬合の矯正」をしたのは、
藤川氏の年俸が上がって経済的余裕が生まれたので踏み切れたとのことなのだそうです。
そういうことになると、新人は育成の一環として全員歯の咬合の検査をして、
場合によっては球団費用で咬合矯正するっていうのもありなんではと思っちゃいますね。
さて、本書は藤川球児氏の野球人生を綴った自叙伝みたいなものとなっていますけど、
これを読むと藤川球児という人はかなり反骨精神のある方なんだなぁと改めて思いました。
まぁ、プロ野球で活躍するくらいの人ですからある程度は反骨精神がなければやってけないのでしょうが、
現役時代でも解説者となった今でもあまり目立って自己主張するタイプには見えなかったので意外です。
そして、前回紹介の「そら、そうよ」岡田彰布著に書いてあったように、
藤川氏は一度阪神を首になりそうになって岡田監督に救われたわけですが、
(トレードに出された先で活躍したかも分かりませんが、阪神ファンとしては救われた)
その辺りについても藤川氏は次のように書いています。
(以下引用)
いずれにせよ、2003年のシーズンが終わった段階で、僕が翌年以降のチームの構想
からはずされそうになったのは事実である。
そのとき、戦力外候補者のリストから僕の名前を消してくれたのは、その年から1軍の
監督に就任した岡田さんだった。
当時の僕は、そうした事情をまったく知らなかった。知ったのは、その4年後の春季キャ
ンプ中、岡田監督から聞かされたときである。 (引用終わり)
すぐに言わなかったのは岡田監督なりの優しさなのかもしれませんし、
それでも現役で阪神在籍時にそのことを伝えるのも何かの意図があったのでしょうね。
実際、それを知ったことによって藤川氏自身、自分を見つめ直す機会になったと語ってますし。
それ以降の阪神での活躍はもとより、メジャー挑戦のいきさつと様々な問題と
国内復帰、阪神復帰など様々なこと、ボクが知らなかった裏話なども本書で知ることになりました。
特に、メジャー時代の人種の偏見、医療の派閥など政治的なあれこれに巻き込まれたことなど
日本ではほとんど取り上げられてこなかっただけに少し衝撃的な内容と感じてしまいました。
けど、まぁここで紹介するのはやめておきましょう。
ここでは「球児」誕生、というか「球児」という名前の誕生の話を紹介しておきましょう。
(以下引用)
親父は、僕が生まれる前日も草野球をしていたらしい。その日、親父は投手としてノー
ヒットノーランを達成した。
プロ野球ではもちろん、草野球の世界でもノーヒットノーランの実現は奇跡に近い。何
かの運命を予感したのか、親父は翌日に生まれた次男を「球児」と名づけた。(引用終わり)
まぁほっこりするような話ではありますが、よくそれで母親はじめ周りの人も反対しなかったものですね。
で、そんな親父さんとお兄さんの影響もあってか球児氏は少年野球チームに入るのですが、
「週末が野球でつぶれてしまうことも、僕には苦痛だった。」なんて書いてますし、
中学進学時は「ハンドボールの経験はなかったが、野球部に入って丸坊主になるよりいい。」とし、
高校進学でも「がんばって勉強」し「一般入試で進学すれば、野球部に入る義理はない。」などと
脱野球を何度も試みるもことごとく失敗して野球漬けの毎日を送ることになってしまったそうです。
そして高校2年の秋季四国地区大会での出来事がこれまた面白い。面白いとは失礼かもですが。
(以下引用)
大事な1回戦で、高知商業はあっけなく敗退してしまった。マウンドに立っていたのは、
僕である。
「おまえのせいで負けた」
試合のあと、顧問の先生にそう言われた。たしかに、僕が打たれたのだが、その試合で
打ったのも僕だけだった。
「わかりました。じゃぁ、やめます」
そう言って、僕はそのまま寮を出た。(中略)
僕は、本気で野球をやめるつもりだった。退学させられてもかまわないとさえ思って、
僕はそれから毎日、野球部の練習にはいっさい参加せず、高知の街を遊び歩いた。
(引用終わり)
でも、結局は野球を続けてしまい、今の藤川球児がいるわけなんですけどね。
それにしても「高知の街を遊び歩いた」というのは面白いですね。
それまでいちおう野球一筋だった高校生なので、遊ぶといっても夜遊びや女遊びじゃないでしょうし、
言ってはなんですが所詮は高知の街なのでそれほどのものでもなかったんでしょうけど。
これが大阪や神戸など大都市だったらまた違ったことになっていたのかも知れませんなぁ(笑)
と、少なくとも阪神ファンであるボクにとってはとても楽しめた一冊でした。
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