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新書「過剰可視化社会」與那覇潤著を読了

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PHP新書の「過剰可視化社会 『見えすぎる』時代をどう生きるか」與那覇(よなは)潤著を読みました。

著者の名前は見慣れない名字だったのでなんとなく沖縄とかの出身かなと思いましたが、
横浜生まれ、東京育ちで愛知県立大学の教授もしていた歴史学者なのだそうです。
ただ、曾祖父が沖縄出身とのことでその名字になっているのでしょう。
で、今は病気を機に大学教授を辞め歴史学者の肩書も捨て、評論家として活動しているとのことです。

ボクはこの著者のことは知りませんでしたし、帯の部分に書かれているように
東畑開人氏、千葉雅也氏、磯野真穂氏との対談も収録されていて、
それがおよそ本書の半分を占めているのですが、その3氏ともにボクは知らない人でした。

 

なお、本書で「見えすぎる」というのは社会全体として見えすぎるというか見せすぎるという部分、
つまりデータや見た目(ルッキズム)偏重という側面と、
個人個人が見えすぎるというかこれも見せすぎるという部分、
つまりここでもルッキズムや映えなどの視覚依存症という側面の両側面で使われています。

なので、ボクは最初は過剰可視化社会というタイトルから
個人情報漏洩などの話かと早合点したのですが、
それとは視点は違っているということです。

本書の「まえがき」では次のように著者が本書を書くようになったきっかけが書いてあります。

(以下引用)                             ひとことでいえ
ば、日本のコロナ禍をかくも深刻化させた最大の背景は、2010年代以降に本格化してき
た「過剰可視化社会」の弊害である。それが本書を貫く、基本的な視点になります。
 いま私たちの社会では、とても変なことが起きています。11年の東日本大震災も契機とな
って、2010年代から多くの日本人がSNS(フェイスブックやツイッター、インスタグラ
ム)を使い始めた結果、特に親しい関係でもない人の「政治的な意見や信条」「抱えている
病気や障害」などが、プロフィール欄の記述だけですぐにわかってしまう。人類史上では長
いあいだ、個人の内奥に秘めておくものとされてきたはずの要素が、誰の目にも「見える」
存在へと次々に形を変えています。                   (引用終わり)

このコロナ禍と過剰可視化社会を結びつけて考えるという視点は
ボクにはまったく思いもしなかったことなので、この時点では戸惑いがありましたが、
その後に本文を読み進めていくと、あぁこういう論理展開なのねと分かってきます。
ただ、それでも個人的には少し違和感を抱いてしまう部分もありましたけど。

そして、SNSについてはボクはツイッターとmixiを経由するために少し使ってるだけですが、
このようにブログは書き続けていて、その点では過剰可視化社会に加担している1人なわけです。
もっとも、あまり政治的な意見や信条とか深刻な病気な障害などについては記事にしてませんし、
ましてやプロフィール欄ですぐにわかってしまうわけではないのですけどね。

けれども、著者のいう「見える」には、“すぐに”とか“安易に”という意味が含まれているようです。
同じく「まえがき」は次のように続いていきますから。
                                    (以下引用)
 なんらかの「答えを出す」タイプのポジティブ(積極的)な能力は、その存在を具体的な
結果や実績、保有者のプロフィールなどで目に見える形にしやすい。しかし「なにが正解な
のかわからない」状態を、むしろ安易な答えに飛びつかないことによって、自身と違う考え
の持ち主とも相互に尊重しあいながら乗り切るネガティブ(消極的)な能力は、視覚化には
向かないのです                   (引用終わり、傍点を下線に変更)

この部分を読むとなんとなく著者の言わんとするところが分かってくるし、
「安易な答えに飛びつかない」とか「ネガティブな能力」ってのはなんか共感できるところです。
まぁ、人によってはまったく共感できないというか、ピンと来ない人もいるでしょうけど……

このような意味では、そこそこ長文で書いているこのブログの今のスタンスであれば、
安易な答えはないし、ボク自身が斜に構えてネガティブな感じですし(汗)、
“イイネ”ボタンも付けてないしで、まぁあまり過剰可視化社会には繋がってないのかも。

 

最後に、立命館大学教授である千葉雅也氏との対談の中で面白いことが書かれていたので
少しだけ紹介しておきましょう。SNSでのやりとりなどについての話です。
                                    (以下引用)
千葉 何ごとも全面支持か完全に否定するかというゼロイチの議論で、二重性がないのです。
與那覇 本来なら言われた相手もクスッと笑ってしまうような、芸としての「いい悪口」が
あり、そうしたやり取りこそが品位の証明だったと思います。(中略)
 しかし目下のSNS社会では「わかりやすく態度表明しないのは、容認と同じだ」とする
規範が強まり、対立相手と共感がなり立つこと自体が悪のように見なされてしまう。(中略)
千葉 おっしゃるように、「いい悪口」は芸なんですよね。でもいまでは本当に失われてし
まいました。                             (引用終わり)

これ、すごく分かりますねぇ。
ボクも「いい悪口」を言えるようになりたいですけど、なかなか芸は身に付かないですなぁ(笑)

でも、この記事でも少し触れたように、芸人としてテレビや本で(政治的な)コメントとかするんなら
少しは「いい悪口」を言ってもらいたいし、品位を持っていて欲しいですね。

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