新書「テクノロジーが予測する未来」を読了
SB新書の「テクノロジーが予測する未来 Web3、メタバース、NFTで世界はこうなる」
伊藤穣一著を読みました。
技術が予測するのか、技術で予測するのか、技術から予測するのか、なんだかよく分かりませんが、
正直なところもう技術革新で新しいバラ色の未来が待っているなんて考えは持てなくなってますが、
それでもボクもあと何十年生きられるのか知りませんが、
まぁ最新テクノロジーについて最低限のリテラシーを持っていた方がよいだろうということで
興味本位というよりも勉強の心構えでちょいと読んでみました。
そんな程度ですので、当然ながら著者のことは存じ上げていませんでした。
肩書は、デジタルガレージ取締役、共同創業者 チーフアーキテクト、千葉工業大学 変革センター長
となっていますが、ボクにとってはチンプンカンプンですね(汗)
まず、「Web3」ですが、言葉は聞いた事があったものの、ボクは
それ以前のWeb1.0→Web2.0と何が違うのかよく分かっておりませんでした。
ボクは1990年代前半からNIFTY-Serveでインターネットの世界に触れているので
Web1.0へは比較的早期に足を踏み入れているのですが、
そこからWeb2.0に移行したという明確な実感も持っていないので、
Web3と言われてもピンと来ないのは当然なのかもしれないですね。
本書ではWeb3について次のようにその特徴を書かれています。
(以下引用)
1つの場を提供し、そこにユーザーを呼び込むというWeb1.0、Web2.0のプ
ラットフォームは、かなり中央集権的でした。その弱体化をもたらしたWeb3は、プラ
ットフォームとユーザーの関係性の「非中央集権化」を意味するのです。Web3によっ
て僕たちは、プラットフォームの囲い込みから解放される、そういってもいいでしょう。
(引用終わり)
なんだか分かったような分からないような感じですが。
メタバースは仮想世界ということでなんとなく分かったような気になっていますが、
NFTというのは、ボクはたぶん初めて聞きました。
本書では次のように比較的簡単に説明されています。
(以下引用)ノン・ファンジブルトークン、すなわちNFTとは、アートやゲームのアイテ
ム、トレーディングカードのような収集性のあるグッズ、デジタルファッション、さらに
はバーチャルな土地など「代替不可能な価値」を表すトークンです。
驚くような値段がついたデジタルアートばかりが注目されていますが、本質的には、N
FTとはクリプトエコノミーのなかで流通、あるいは保有されている「価値」であるとい
うのが正確な理解です。 (引用終わり)
なんとなくもやっとしか分かりませんが、個人の唯一無二の価値がノン・ファンジブルで、
現金や金などの価値がファンジブルという考えでいいのでしょうから、
そのデジタル版としてファンジブルトークンが暗号資産などに当たるのに対して、
デジタル版というかメタバースで個人の唯一無二の価値となるのがNFTということなのかな。
正直なところ、デジタルアートもゲームのアイテムもトレーティングカードも興味がないので
ほとんどその手の話には縁がないですし、例として挙げられてもピンと来ないのは当然ですね。
さらに、暗号資産にも興味がないので、ファンジブルトークンにすら関与していませんので
それと対比するトークンだと言われても、これまたピンと来ないのは当たり前でしょうね。
ただ、暗号資産にしてもNFTにしてもブロックチェーン技術によって安全性が担保されているので、
だからWeb3が「非中央集権化」となるというのは、
そこで繋がってるのかと少し合点がいくところではありますかね。
といっても、まぁ全体的にこんな感じで専門用語がバンバン出てきて、
なんとなく分かったような分からないような、そんな感じで読み終えてしまったという感じです(汗)
本題とは少し外れた部分でちょっと面白いなと感じたことがあったので、紹介しておきましょう。
(以下引用)
日本の教育では、ずっと学生を文系と理系とに分けてきました。そして文系は総合職、
理系は専門技術職というように進む道が枝分かれするうち、「文系人材が立てたプランに
従って理系人材が働く」という上下関係の構図ともいえるものができてしまったように思
えます。
文系と理系に分ける教育は、メーカーという技術者集団がモノをつくり、それを文系の
集団である総合商社がどんどん海外に売る、という戦後の高度経済成長期の頃はうまく機
能していたのでしょう。
(中略)
先にも述べたように、どうも日本の理系人材は、文系人材につき従うという「下請け的
な立場」に甘んじてきたように見える。これは技術者のほうにも、「文系の人たちが想像
したものを職人的にかたちにしていく」という状況に慣れてしまったところがあるからだ
と思います。
技術をわかっている人が美学をもって創造すると、おもしろいものができます。「想像
する文系、かたちにする理系」という構造を壊し、技術者がもっと価値を認められて、幅
広い分野で能力を発揮できる社会になれば、日本の国力は確実に上がっていく。
(引用終わり)
まぁ、ボクは学生時代は理系で、現役サラリーマン時代は技術者で、考え方も理系で、
このブログでも理系/文系と区別してなんらかの考えを書いていたりしますが、
ただ、学生時代でもサラリーマン時代でも、人と接する時に相手が文系か理系かを意識してません。
もちろん、サラリーマン時代の開発現場では相手が技術者かどうかは意識しましたけど。
というか、真の技術者か、似非の技術者か、技術者以外の人かの3分類は意識してましたけどね(笑)
ですから、技術者としてのプライドはもっていても、文系の下請け的立場とは思ってなかったです。
たた、会社組織全体としてはやはり技術者は冷遇されていたという感じはありますね。
江戸時代の“士農工商”というのになぞらえれば、さしずめ“士農商工”ってところでしょうか。
“士”は武士ではなく首脳陣という意味だし、“農”は農民ではなく工場製造現場という意味ですが、
“工”は技術者、“商”はそれ以外のいわゆる総合職ということになりますかね。
まぁ、江戸時代の“士農工商”もいろいろな解釈があるようなので、
ここではあくまでもイメージとしてこんな感じというだけのたとえ話でしかないですけどね。
ちなみに、似非の技術者は何かと問われれば、あくまで個人的な見解ですけど、
単純に例えれば穢多・非人とか賤民とかいうことになるのでしょうけど、
まぁそこまで言い切れるわけでもないので、そこはあいまいのままにしておきまょぅかね(汗)
ともかく、なんにしても、日本の技術者は全体的にあまり優遇されてないのは事実でしょう。
なので、この著者の主張には共感しますね。
もっとも未来に向けての技術者ということでは、主にIT技術者ということなんでしょうけどね。
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