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文庫「暇と退屈の倫理学」を読了

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新潮文庫「暇と退屈の倫理学」國分功一郎著を読みました。
著者は東大の准教授だそうで、本書は倫理学・哲学の本です。

文庫本ですが、総ページ数500ページを超える哲学の本ですから、それなりに読み応えがあります。
といっても、「注」の部分には、著者も読まなくて良いと書いてあったので読みませんでしたけどね。
それに、文章も比較的平易に書かれているので難解で困るということもありませんでした。

なお、本書は朝日出版社から2011年に発刊された同タイトルの単行本に、
増補新版として2015年に発行された単行本を、
2022年に文庫化して発行されたものになります。

 

ボクは早期リタイアして以来5年間まったく仕事はしていないので、
暇=仕事をしていない時間という意味では十分な暇がある生活をしています。
だからと言って、まったくもって退屈はしていません。

そもそも、物心ついた時から、学生時代、サラリーマン時代を振り返ってみても
退屈してしかたなかったという経験がほとんどない気がします。

確かに、つまらない授業・講義だったり、時間的に拘束されたつまらない仕事などで
退屈したことがまったくないわけではありませんが、
何もやることがなくて退屈で退屈でたまらないってな感情になったことはほとんどないです。
まったく何もなくたって、人間観察したり、妄想したりと退屈しない術はいろいろありますから。

なので、本書のタイトルで“暇”と“退屈”が並べられていることに不思議な感覚があって
それ故に、暇な時間にでも読んでみようと思った次第なのです(笑)
で、本書では“暇”と“退屈”についてはそれぞれ次のように定義されています。

                                 (以下引用)
 暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなか
にいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わ
っている。
 それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。
それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。
                                (引用終わり)


「退屈は主観的な状態」ということで、ボクが暇があっても退屈と感じないのは、
これも主観的なことだからというわけですね。
主観的だからといっても、退屈と感じる人とそうでない人がいるのかも興味のあるところですが……
でも、本書では“暇”について論じているのではなく、“退屈”について論じているのです。
タイトルに“暇”と入っているのは、次のように暇と退屈が混同されるからのようです。

                                 (以下引用)
 このような疑問が出てくる原因は、暇と退屈の混同にある。既に述べたように、私
たちはしばしば両者を混同する。「暇だ」という言葉はほとんどの場合、「退屈だ」と
いう意味である。だから暇であることが悪いことに思えるのである。「ひまじん」と
いう言葉に否定的な価値が与えられるのもそのためだ。       (引用終わり)

暇(閑)であっても、退屈してなきゃいいじゃないかというわけですが、
本書では人間は退屈するものだ、という前提から出発していて、
その退屈にどう対峙したらよいのかということが哲学的に考えられていくわけです。

 

その思考の過程では古今東西のさまざまな哲学者たちが登場してくるのですが、
そこにはかなりの部分を割いて、かのM.ハイデッガーも出てきます。
正直、ボクはこちらの「技術への問い」を読破できなかったのがトラウマとなって
ハイデッガーの名前が出てくると身構えてしまうのですが……

                                 (以下引用)
 本章では退屈論の最高峰に挑戦してみたい。これまでに何度か名前をあげたマルテ
ィン・ハイデッガーの退屈論『形而上学の根本諸概念』である。
 見ての通り、かなり硬いタイトルの本である。分厚いし、やたらと難解な単語も現
れる。哲学にもともと関心のある人でなければ絶対に手に取らないだろう。
                                (引用終わり)

よかった、よかった。ハイデッガーの言葉でそのまま語られても拒絶反応しか出てこなかったですが
著者によって優しく分かりやすく次のように要約されています。

                                 (以下引用)
 ハイデッガーの退屈論の結論は決断だった。人間は退屈する。その退屈こそは、自
由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を
実現せよ……。
 ハイデッガーの議論は哲学的に難解な語彙に彩られている。だから、その意図する
ところを即座に理解するのは難しいかもしれない。だが、この結論とは要するに、退
屈している人に対して「グダグダしていないで、心を決めて、しゃきっとしなさ
い!」と活を入れることに他ならない。              (引用終わり)

もちろん、これはハイデッガーの結論であって、本書の著者の結論ではありません。
このハイデッガーの思考過程を利用しつつも、これを否定して別の結論へと進みます。

 

そして、本書では3つの結論として明確に列記してありますが、この記事で紹介はしません。
それは、単にネタバレを避けるという意味ではなく、次のようなことも書かれているからです。

(以下引用)                              たとえ
ば、数学の公式の説明を受けてそのような感覚を得たのなら、その公式を理解できた
わけである。
 しかしそれだけではない。人は何かが分かったとき、自分にとって分かるとはどう
いうことかを理解する。「これが分かるということなのか……」という実感を得る。
(中略)
 だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひい
ては生きる術を獲得させるのだ。
 逆に、こうした過程の重要性を無視したとき、人は与えられた情報の単なる奴隷に
なってしまう。こうしなければならないからこうするということになってしまう。た
とえば、数学の公式の内容や背景を理解せず、これに数値をあてはめればいいとだけ
思っていたら、その人は公式の奴隷である。            (引用終わり)

過程が大事なわけだから、過程を抜きに結論だけ書いても意味がないですからね。
それにしても、数学の公式の奴隷という表現は面白いし、妙に納得しちゃいますな。
でも、数学に限らず公式=公に定められた形式の奴隷になってる人も多いんじゃないのかなぁ。

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