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単行本「銀翼のアルチザン 中島飛行機技師長・小山悌物語」を読了

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角川書店の単行本「銀翼のアルチザン 中島飛行機技師長・小山悌物語」長島芳明著を読みました。

帯に「――SUBARUの安全神話の源流となった男――」と書かれています。
小山悌(こやまやすし)の名前は聞いたことがありましたけど
それはあくまでも中島飛行機の技術者としてであって
富士重工(SUBARU)としてはその関連など含めても聞いたことはないので
まぁ帯特有のあおり文言、もしくはこじつけかなと予想して読み始めました。
そもそも、中島飛行機と富士重工(SUBARU)は基本的には別の企業組織と考えてますし。

また、同じく帯の戦後アメリカによる疾風のテストの件も別件で知っていたのですが
本書の冒頭では、「プロローグ」としてそのテストの風景から始まっていきます。

                                    (以下引用)
 機体に振り分けられた番号は「No.T 2-301」、コードネームは「フランク」。日本名は
「疾風」。「大東亜決戦機」という勇ましい名前でも知られていた機体である。
 パイロットは、フランクと戦った同僚たちの言葉を思い出した。
『ジークやオスカーよりも恐ろしい機体が。仲間の多くはフランクに撃墜された』
 ジークは「零戦」。オスカーは「隼」のコードネームである。 (中略)
『火力の高い機銃に、分厚い防弾タンク。座席にも厚い防弾板。重たいはずなのに何て軽いん
だ。安心して戦える機体だな。』 (中略)
『他にも天蓋の防弾ガラスは飛散装置が設定され、迅速に機外脱出ができます。パイロットの
ことをよく考えている機体です』
『カミカゼアタックをしていた日本人が考えた機体とは思えないな』    (引用終わり)

日本ではなにかにつけて零戦(れいせん)とともに三菱と堀越二郎に光が当たりますが
(ただ零戦でもエンジンはすべて中島の栄だし、機体製造も中島の方が多かったのですが)
開戦当初は零戦も強かったけど戦況が進むにつれ撃墜されるのが多くなったそうです。

一方、大戦末期の日本では良質なガソリンが入手できず、疾風も性能を存分に発揮できなかったと言われ
それが戦後アメリカで質の良いガソリンと整備状況で性能試験をしたら
アメリカの戦闘機をも凌駕する戦闘能力を持っていた、というのはボクも知っていた事実です。

でも、驚いたのはそこではなく、零戦では海軍の要求もあって防弾は軽視され貧弱だったそうだが
海軍・陸軍(疾風は陸軍機)の違いがあるにせよ戦況が苦しくなり、より軍の発言が強かった時期に
零戦とは真逆といってもいいような防弾重視=パイロットの命を重視した疾風の設計は意外で
この本を読んで先ず最初に考え直さなければならないと思ったことでした。

こじつけにしろ、帯に「SUBARUの安全神話」と書いてあることもあり
確かに本書ではことあるごとに安全性重視の設計を貫いたことが書かれています。
ある程度は誇張もあるのかもしれませんが、ノンフィクションとして書かれているのだから
そこにはなんらかの事実に基づいたものがあるはずでしょう。

 

その安全思想はもともとは中島飛行機が招聘したフランス人技師マリーの飛行機哲学から来ていて
面白いのは、小山は入社時に知久平(中島飛行機創業者)社長から
そのフランス人の通訳をしてくれと言われたのだそうで、
そこから飛行機設計技術と飛行機哲学を受け継ぎ、最終的には技師長までなったということです。

パイロットの安全という点では次のようなくだりも出てきます。

(以下引用)      あるときは陸軍の技術将校から航続距離の増大のため、防護版を薄
くして操縦席後部の燃料タンクを増設するように提案されたが、小山は激しく拒否した。フラ
ンス人技師から受け継いだ「パイロットの安全」の飛行機哲学に反するものである。(中略)
 小山は軍人が怒る前に激怒し、陸軍の技術将校と取っ組み合いの喧嘩をしてパイロットの命
の大切さを説いた。陸軍の誰が何と言おうと、防護板を薄くする軽量化と燃料タンクの増設の
設計はしなかった。
「従わないんだったら、三菱を採用するぞ」
 そう脅されても屈しなかった。                    (引用終わり)

これは、キ27という戦闘機の開発中のことですが、結局のちに九七式戦闘機として制式採用されます。
ここら辺からしても三菱・堀越の零戦およびその前身の九六式戦闘機とは一線を画す設計思想でしょう。

 

また、前述のように戦後の日本ではやたらと零戦ばかりが脚光を浴びていて
零戦以前の日本の飛行機技術は屁みたいなもので、零戦だけが傑出した名機として誕生した
つまりは三菱の堀越二郎だけが傑出していたような論調が多くなっています。ただし……
                                    (以下引用)
「すみません。『隼』って、キ43のことですか?」
「はい。陸軍では『隼』という愛称で呼んでいます。今年の終わりごろに採用されるらしいで
すが、そしたら『零式』となります。海軍の『零戦』と呼称が似てしまうので、そうなったよ
うです。」                              (引用終わり)

零戦とほぼ同等の性能を持っていたとされる陸軍の隼は本来なら零式となるはずだったのであり
実際にはそれは陸軍の運用問題などで先送りにされて、結果的に一式となってしまったのですが
零戦とほぼ時を同じくして同じような性能を持っていたということになります。

ちなみに、余談ですが、前述の九七式、そして隼などの設計では小山の直下では
糸川という破天荒なエンジニアが大活躍し、独自にジェットエンジンの開発も進めたようですが
彼は戦時中に中島飛行機を退社して大学教授になって研究することになります。
なにを隠そうその糸川とは日本のロケット開発の父とも呼ばれるようになる糸川英夫氏なのでした。

 

今のSUBARUの本工場の本館としても残っている建物などの記述も面白いものがあります。
                                    (以下引用)
 新工場の本館は鉄筋コンクリートの三階建ての総タイル張り。玄関の屋根と柱はイギリス製
の特注レンガが使われた。巨大な金庫もあり、重要書類はそこに保管されている。(中略)
 トイレは水洗トイレを完備。水田と桑畑ぐらいしかない田舎の太田に東京のデパート以上の
建物が建てられ、地元も人はただただ驚くことしかできなかった。(中略)
 行幸は群馬県の総力を挙げて準備され、太田駅から工場までの道のりはアスファルト舗装さ
れて町民たちは雑巾がけをした。                    (引用終わり)

これは、昭和9年の秋に天皇が中島飛行機に行幸することになったということから
そのために本館を突貫工事で立派で最新の建物として建てて、道路を舗装したということです。
にしても、町民で道路を雑巾がけしたというのは現代の感覚からすると信じがたいものですね。

ちなみに、この時のグッズプレスに掲載された写真がその本館を背景に撮影されたものです。

 

そして、最後の飛行機として「富嶽」の話になっていきます。中島知久平の言葉です。
                                    (以下引用)
「いま日本は南方諸島で激しい戦争をやっているが、ミッドウェーあたりから劣勢になってき
た。戦争の様相はまったく一変している。このまま行くと日本の国はなくなる。完全に敗戦し
てなくなる(中略)
 けれども、少しでも有利な形で講和するには、方法は一つしかない。アメリカの本土を直接
攻撃することである。(中略)
 飛行機の名前は「Z機」。
「日露戦争の日本海海戦の故事からではない。この飛行機が中島の最後の飛行機である。それ
故、『Z機』と呼ぶ」                         (引用終わり)

このZ機が「富嶽」なわけです。
ボクはこの富嶽は知久平が着想して、一部の技術者が概要を検討した程度だと勝手に思ってましたが
三菱、川崎、川西、住金、日本タイヤ(現ブリヂストン)など各社から技術者を招集しての
国家プロジェクトとして開発がスタートしたんですね。
とはいってもあくまでも知久平が中心となってそういう形でスタートさせたわけですが。

しかし、
                                    (以下引用)
 東條降ろしに活発に動いた岸信介が富嶽プロジェクトに強く反対し、試製富嶽委員会は強制
的に解散させられることになった。                   (引用終わり)

やってくれたんですね、安倍晋三のお爺ちゃんは(笑)

この富嶽について知久平は、前述の通り、これで勝てるとは微塵も考えていなかったわけですが、
それでも敗戦後はこの富嶽が旅客機として生まれ変わるという構想まで抱いていたようです。
ただし、同時に中島飛行機会社そのものは敗戦とともに完全に無くなるとも言っていたわけです。

それとともに、知久平は敗戦後は自動車を造るとも言っていたようです。
それは、中島飛行機が自動車を造るということでもなく、知久平自身が自動車会社を興すわけでもなく、
中島飛行機の技術者に対して、戦後は自動車を造ればよいと話していたということです。

そういう意味では、富士重工の百瀬晋六に限らず、プリンスの中川良一やホンダの中村良夫など
中島飛行機出身の技術者は戦後の日本の自動車技術を支えたとも言えるし
それは知久平の予言どおりとなったとも言えるのでしょうね。

なお、この時に旧中島邸で見学した富嶽の概略図などの資料ですが
敗戦直後にGHQに接収・処分されることを恐れて、隣家の正田家に託していたのだそうです。
そして、その中には爆撃機としての富嶽の図面だけでなく、旅客機・富嶽の図面もあったそうです。
知久平という人はどこまで先を見ていたのか……驚かされますなぁ。

 

最後の方では、戦後に中島知久平や小山悌が直接語ったような書物がほとんどないことについて
次のようなくだりが出てきます。
                                    (以下引用)
 堀越は零戦を雄弁に語り続け、文化人を喜ばせていた。
 文化人たちの中島飛行機の評価は「軍部と結託して金儲けをした売国企業」であり、彼らは
自己欺瞞と虚栄心に満ちた鳩山一郎の回顧録にある知久平非難の記述を根拠に、中島知久平を
軽蔑していた。
 中島飛行機の悪評ばかり流れるので中島の元社員は憤っていたが、小山は平静だった。かつ
ての部下にその手の取材が来たら断るように何度も注意していた。
 知久平さんの売名嫌いを通したい。                   (以下引用)

そういう想いがあったんですね。
そして、戦後の富士産業(富士重工の前身)には中島知久平はもちろん小山悌もいなかった。
スバルの基礎を築いたのは、中島飛行機時代はエンジン(の艤装)に携わっていた百瀬晋六であり
だから、小山悌の安全第一主義は少なくともそのままSUBARUに引き継がれたわけではないですね。

 

なお、前述のように、日本の戦闘機の話は零戦とその設計主任の堀越二郎ばかりが取りざたされて
なかなか中島飛行機の隼や疾風などについて書いている本はみかけないのですが、
それでもボクは以前に次のような文庫本を読んでいました。
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光人社NF文庫の「決戦機疾風 航空技術の戦い 知られざる最高傑作機メカ物語」碇義朗著を読んでいます。
こちらは技術者に焦点を当てたものより、メカニズムなどに焦点が当たっています。
なお、碇氏の著した本は他にも戦闘機や自動車などメカモノに関する本を何冊か読んでますね。

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