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新書「てんまる」を読了

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PHP新書の「てんまる 日本語に革命をもたらした句読点」山口謠司著を読みました。
著者の山口氏の著した本は、この時の「ひらがなの誕生」も読んでいましたが
購入する時はそれを知っていたわけではなく、後から分かったということです。

本書では、日本語の句読点の中でも「てんまる」=「、」と「。」に焦点を当てて
その歴史から用法や表現手法などにも言及して解説している内容になります。

前回紹介の「日本語の大疑問」につづいて、日本語に関する本ということもできますし
ボク自身もこのブログを書いているわけですから
「てんまる」について理解を深めておくことは大切なことでしょうからね。

 

まず、本書の第一章では冒頭から次のように書いてあります。
                                    (以下引用)
 まず、本題に入る前に、縦書きと横書きについても考えてみたいと思います。
 最近では、横書きで日本語を書く時には、「てんまる」の代わりに「コンマ・ピリオド」を

使うという人も少なくないようです。いつから、このようなことになったのでしょうか。
 もとを辿ると、これは戦後まもなく起きた、全国規模のローマ字化運動からきています。連
合国最高司令官総司令部(GHQ)の占領下、「国語」改革が行なわれました。(引用終わり)

ボクもこの記事に書いたように以前は「コンマ・ピリオド」を使ってましたが
今は横書きでも「てんまる」を使うようになりました。
もっともGHQうんぬんで「コンマ・ピリオド」を使っていたわけではありませんし、
縦書き・横書きだから句読点を変えるというより、技術論文だから「コンマ・ピリオド」を使い
それをわざわざ使い分けるのが面倒だから「コンマ・ピリオド」で統一していただけのことですが。

ただ、一方で次のような調査結果も紹介されています。
                                    (以下引用)
 文化庁『平成二十九(二〇一七)年度国語に関する世論調査』というものがあります。(中略)
 これによれば、八十一%以上の人は、横書きの文章でも「、」と「。」を使うと答えていま
す。(中略)   「,」と「。」を使う人は、九・五%です。
 さらに、英語のように、「,」「.」を使う人は二・三%という割合も出ています。
                                   (引用終わり)

この調査結果によると「カンマ・ピリオド」派はごく少数の変態だけみたいですね(笑)
それより「カンマ・まる」派が1割近くもいるというのがボクにとっては衝撃でした。
そんな使い方してるの初めて見たよ、って感想だったのですが、
実は、今の共通テストなどでは横書きの文章は「カンマ・まる」で書かれているのだそうです。

さらに、文部科学省では次のように句読点を決めようとしているのだそうです。
                             (以下引用、改行位置変更)
 さて、文部科学省の「文化審議会」(第72回国語分科会)は、令和元(二〇一九)年十一月八日、
『「公用文作成の要領」の見直しに関する国語課題小委員会の検討状況(案)』というものを発表
しています。この中に、「表記の原則」「符号の使い方(1)句読点の使い方」という項目があ
ります。
   句点には「。」読点には「、」を用いる。横書きでは、読点に「,」を用いてもよい。
   横書きの読点においては「、」と「,」が混在しないように留意する。また、学術的・
  専門的に必要な場合等を除いて、句点に「.」は用いない。      (引用終わり)

これによると原則は「てんまる」だが「カンマ・まる」も認める。
しかし、「カンマ・ピリオド」は認めないということになります。
まぁ、あくまでも公用文書の場合に限った話ですけどね。

 

それから、句読点ではないのですが、「カンマ・ピリオド」→「,」と「.」ということでは
次のように小数点と位取りの話が出てきます。
                                    (以下引用)
   ……小数点と位取りの符号の使い方は国によって違うことをご存知でしょうか。日本で
  は0.1のように小数点をピリオドで表し、1,000のように三桁ごとの位取りにコンマを使っ
  ています。これはイギリス式と呼ばれ、英語圏での慣習に基づいたものです。
   しかし、フランスやドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガルなどでは逆の使い方をし
  ます。フランス式と呼ばれ、小数点にコンマを使い、位取りにピリオドを使っています。
                                   (引用終わり)

たしかに、たまに逆の使い方をしている人がいることは知っていましたけど
慣習的にそういう使い方をしているだけで、正式にはISOで決まっていると思い込んでいました。
ただ、これ、ウィキペディアなどでもう少し調べてみると、意外なことを知りました。
ISO規定では、小数点はピリオド(イギリス式)かカンマ(フランス式)のどちらでもよいが
位取りはしなくてもよいし、する場合はスペースのみとなっているようです。

つまり、1,000も1.000も正式には間違いで、正しくは1000か1 000ということになるんですね。
そう言えば、現役時代でも技術的な物理値を表す時には位取り記号は使いませんでした。
それが、金の話となると位取りで「,」を使うようになるのですけど……

 

さてさて、この本は「てんまる」についてですので
それが「カンマ・ピリオド」かどうかは本書の主題ではありません。
ただ、歴史的には「てんまる」に落ち着くまでにも色々あったことが紹介されてますが、
そもそも「てんまる」が一般的に使われるようになったのは実は最近のことで
明治時代になって使われはじめて、一般的になったのは明治後半になってからとのことだそうです。
                                    (以下引用)
 以上、ここまで述べてきたように、江戸時代まではすべて文章は、候文も含めて、日本語な
らではのリズムを基準に綴られるものだったということです。
 その文章の調子が消えていく中で、人は黙読をするようになって音読もしなくなり、視覚的
に区切りを見つけるための記号として「てんまる」を必要とするようになったのです。
                                   (引用終わり)

黙読するようになったから「てんまる」が必要になったということだそうです。
たしかに、話し言葉なら「てんまる」はないので必要もないわけですからね。
そして、教育が行き届いて明治後半になってやっと「てんまる」が一般的になったのだと。

一例として明治制定の大日本帝国憲法と戦後の日本国憲法の比較が紹介されています。
                                    (以下引用)
 まず、「日本国憲法」の前文、冒頭を見てみましょう。(日本国憲法は省略)
 意外と「てんまる」が多いと思いませんか? 明治二十二(一八八九)年に発布された「大
日本帝国憲法」は、これに比べて、まったく「てんまる」がありません。  (引用終わり)

憲法自体はここでは引用しませんが、興味のある人はネットで調べるなどして比較してみてください。
そして、現行の日本国憲法については次のように著者は書いています。
                                    (以下引用)
 私も、本書を書きながら、改めて「日本国憲法」の全文を読んでみましたが、どこにこの言
葉は掛かっているのか、などという疑問を抱かせるような部分がまったくない「日本国憲法」
は、短期間で作られたとはいえ、日本語の文章として正確な表記がなされていることに改めて
驚いたのでした。                           (引用終わり)

もちろん、内容についてウンヌンとか憲法改正の議論とはまったく関係ないのですが
句読点の打ち方としては良い参考書になるということなのですかね。

 

では、正しい句読点の打ち方、特に読点はどこに打つべきか、打たざるべきなのか?
というのは、何も決まりはないそうです。
まぁある程度の目安みたいなものはあるようで、本書でもそれは説明されていますけど。

それでも、次のような記述が出てくるのですからそこはあいまいなわけです。
                                    (以下引用)
 石黒氏は、ウクライナ語とロシア語を母国語とする留学生が、この現状を見て、「日本人の
読点の使い方がいかにいい加減か」として「口を揃えて怒っていた」と記しています。(中略)
 しかし、日本語というのは、実に古来、あいまいな言語で、このあいまいさこそが日本の文
化を作ってきたといっても過言ではありません。             (引用終わり)

たまたまウクライナとロシアが出てきてますけど、昨今のウクライナ情勢を踏まえた話ではありません。
ウクライナ語もロシア語も似たような言語で句読点に厳密な文法が存在するのでしょうね。

さらに、笑い話みたいなことが文部科学省からも発信されているようです。
                                    (以下引用)
 例えば、文部科学省の初等中等教育局国際教育課は、ホームページで「海外子女教育、帰
国・外国人児童生徒教育等に関するホームページ(CLARINETへようこそ)」に「作文」
という項目を設けて、日本語の「作文」について説明をしているのですが、「上級」のところ
に、「読点は、意味と音調の両面から判断して打つ」と書くなど、最終的には日本的なあいま
いな文脈で判断することを教えているのです。外国語を母国語とする外国人児童生徒などに、
日本語の「音調」などがいきなり分かるはずがないと思うのですが。    (引用終わり)

日本語の音調なんて、60年ほど日本語に接してきたボクにもピンときませんわな。
あまり難しく考えなくてもいいということですかね。
ただ、次のようなことがもっとも大切というか、心掛けたいところでしょう。
                                    (以下引用)
 我が国での句読点の使い方での要は、まさに「読ませるように書く」、つまり、読者の立場
に立って書くということが重要だというのでしょう。           (引用終わり)

まっ、読み手は広範囲に渡り、いろんな人がいるので
この読者の立場に立つというのが一番難しいことでもあるんでしょうけどね。

 

ところで、「てんまる」だけでなく、それ以上にびっくりしたことが書かれていました。
                                    (以下引用)
 さて、文部科学省は、令和四(二〇二二)年度より、高等学校二年次以降の国語教科書から、
実質的に文学を教えないということにしました。
 これまで高校での文学の教材として定番だった森鷗外の『舞姫』、夏目漱石の『こころ』も
もう大学受験を考える学生に対して教えられることはありません。また、同時に、「共通テス
ト」など、大学入試に文学が取り上げられることもなくなりました。
 文学を教えなくなる代わりに「論理国語」というものが導入されるのです。(引用終わり)

えっ、そうなんだ。
という感じとともに、文学というものが苦手だったというか縁遠かったボクにしては
さらには理系の人間にとっては日本語でも論理的に正確に読解・記述できないといけませんから
文学よりもその論理国語を教えるのはいいことじゃないの、なんて一瞬思っちゃいましたけど。

でも、よくよく考えると、文系の人間でも文学を学ばなくなるということですから
それはちょっと違うんじゃないか、問題なんじゃないか、と思っちゃいますね。
そもそも「論理国語」って高校じゃなくて小中学校で基礎をしっかり学ぶもんじゃないの?

 

と、いろいろと盛りだくさんで大変面白く読み進められた一冊でした。

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