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M.ハイデッガー著「技術への問い」の読破は断念

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平凡社ライブラリーの「技術への問い」マルティン・ハイデッガー著・関口浩訳を読み始めたのですが
というか、昨年末にも一度読み始めたのですが、あまりに難解ですぐに挫折してしまったのを
また挑戦してみようと試みたものの一つの章(一つの論文)をとにかく読破してみたものの
まるっきり理解もできないので、もう読まない(読めない)と諦めました。

本来ならサラリーマン時代の技術者であった時に読むべき内容の本なのでしょうし
もっと言えば学生時代に技術者を志した時点で読むべき内容の本だったのかもしれません。
(この日本語訳の著書は2009年発行で、HL判は2013年発行ですけど
 マルティン・ハイデッガーの論文・講演は1953年から1962年に出されたもの)
だけど、もうボクは無職の身で技術者でもなんでもないんだから、難解なら断念しましょう(笑)

 

本書の裏表紙には次のように本書の紹介がされています。
                         (以下引用)
現代のさまざまな危機が技術的に解決されたとして、
すべてが適切に機能するに至ったとして、
その世界はパラダイスなのであろうか――
原発事故後もアトミック・エイジを生き、
技術を求め続ける現代人に
すでに示されていたハイデッガーの問いと思索。
二十一世紀、われわれは、
「技術と自由な関係」を築くことができるか。   (引用終わり)

これを読んだら中身も読みたくなりますよねぇ、元・エンジニアとしてもね。

それで、中身を読み始めると例えば以下のような調子です。
                                   (以下引用)
 用立てへの挑発として集-立は、開蔵のひとつのしかたへと派遣する。集-立は、開蔵の
あらゆるしかたと同様に、命運のひとつの派遣である。このような意味での命運は、<こち
らへと-前へと-もたらすこと>、すなわちポイエーシスでもある。
 存在するところのもの[was ist]の不伏蔵性はつねに開蔵という道を行く。開蔵の命
運は人間をつねにくまなく支配する。だが、命運はけっして抗しがたい力としての宿命
[Verhängnis]ではない。というのは、命運の領域に属し[gehören]、そのことによって、隷
属する者[Höriger]ではなく、傾聴する者[Hörender]になるならば、その場合にこそ人間
ははじめて自由になるからである。                  (引用終わり)

前後関係がないから余計にチンプンカンプンになってしまっているのはあるとは言え
この調子が延々と続くのですからボクにはまったく手に負えませんでした。
これは講演用の論文ということですから、講演そのものもこの調子だったのでしょう。
だから、一語一語の意味を思いだし、一文一文の意味を吟味して聴いている時間なんてないはずです。

じゃぁとにかく意味不明ながらも喋るような速度で読み進めていったら
全体としてどんなことを謂わんとしているのかおぼろげながらも見えてくるのか?
ということで一つの章というか一つの論文の区切りまで無理して読んでみましたが……
結局、なーんも見えませんでした。

分かったことはただひとつ。この本を読み切ることはボクには不可能だと。
今さらながら自分の文章理解力の低さに愕然としてしまいましたな。
まぁ哲学書とかも全然読まない人間なのでそういう低レベルなままジジイになっただけのことですが。

 

ただし、訳者後記と平凡社ライブラリー版訳者後記、さらに村田純一氏の解説だけは読みました。
その村田氏の解説ではハイデッガーの技術論について次のように書かれています。
                                   (以下引用)
 むしろ技術は、わたしたちがこの世界で出会うさまざまな存在者を理解する仕方そのもの
を規定する役割を果たすものであり、その意味で、存在論的な概念として理解しなければな
らないとされる。技術と対比される自然物であれ、技術的に生産される人工物であれ、ある
いは、技術を用いる人間であれ、どのようなものであれ、それらが理解される枠組みを存在
論的な枠組みと呼ぶとすれば、技術は、その枠組みのあり方を規定する役割を果たしている
というのである。                          (引用終わり)

まぁこのレベルの文章であればなんとなく分かったような気がしますね。
それでも、分かったような気がするだけで、じゃぁなんなんだよと言いたくなりますが。

ただし、ハイデッガーは技術的世界の危機的状況を解決するような具体的方策を示してはいないし
前回および前々回紹介したような生命倫理などの問題への寄与も何も示されてはいないそうなので
結局は問いかけだけで答えはないということなのでしょうね。

というわけで、訳者後記と解説だけを読んでなんとなく分かった気分になっただけで
この本はもういいかなと勝手に自分で決めましたorz              

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