岩波書店「現代哲学の冒険⑪ 技術と遊び」を読了
岩波書店の「現代哲学の冒険⑪ 技術と遊び」を読みました。
1990年発行の古い単行本サイズでハードカバー付の定価2600円もする立派な本ですが
たしかこの時のさかい産業祭で無料で貰ってきた元・図書館にあった本でしょう。
そして、この岩波新書の「現代哲学の冒険」は全15刊あり、その11刊めがこの本であり
編集委員が市川浩、加藤尚武、坂部恵、坂本賢三、村上陽一郎となっていますが
中身はまたそれぞれ6人の方が別々に書いている論文(?)と1人の方の写真集みたいなものを
ひとつにまとめていて、そこに「技術と遊び」というタイトルを付けた形になっています。
「はじめに」や「おわりに」など本書を総括するような編集者の言葉もなにもないので
ちょっと全体像が掴みづらいまま、いきなり本文に突入することになります。
その6人の方の論文タイトルと氏名を列挙しておきましょう。
機械幻想論――西垣通
模造のことば ことばの欲望 プラハ ゴーレム 物語――檜山哲彦
ロボット心理学――信原幸弘
科学と<ファジィ>――菅野道夫
遠近法の虚構と真実――佐藤康邦
日常性の快楽――新島瀧美
まぁ本が古いと言うのもあって著している人もほとんどがボクよりひと回り以上も年上の方々です。
そして、これまた哲学書なのでかなり難解な文章が続きます。人にもよりますけどね。
ただし、前回紹介の「技術への問い」ハイデッガー著に比べればはるかにハードルは低いので
なんとかかんとか挫折することなく最後まで読み終えることができました。
内容的には「技術と遊び」という括りから外れているように感じられるものも多いですけど
なんとなく“技術”に関する部分も多くて、ここにもハイデッガーが登場したりもしています。
例えば、最初の「機械幻想論」の中では次のようなところでハイデッガーが登場しています。
(以下引用)
ハイデガーは、<テクネー>を、互いにむすびついた二つの意味を持つものとして考察した。第一の意味
は<出できたらすこと(ポイエーシス)>である。これは詩作的なもので、ただ職人的な働きばかりでなく、
芸術作品をつくりだすことでもある。ポイエーシスは自然(ピュシス)のうちにもある。たとえば花は花咲
くほころびを自らのうちに持っているわけだが、このように「自ら-然か-成ること(das von-sich-her-
Aufgehen)」もポイエーシスなわけだ。
だがハイデガーがその技術論の中心としたのは、むしろテクネーの第二の意味である<あばきだすこと>
である。これはテクネーにおける<認識>や<エピステーメー(理論知)>の基軸とかかわっている。つま
りテクネーとは、「隠されたものを露わにあばきだし、開明し、認識する」一つのあり方に他ならない。
(引用終わり)
と、こんな調子なのでやはりボクには難解であることには変わりないですけどね(汗)
まぁそれでもなんとかなんとなく繋がりだけは分かった気になって読み進めたわけです。
そして、哲学的な話ですから結論だけというかそもそも結論がなく考える過程が大切なわけなので
ここではちょこちょこと短辺的に面白いところを紹介しておくことにとどめましょう。
同じく「機械幻想論」における記述です。
(以下引用) 創意工夫の巧みさによって、「天才を与えられし者
(en+genius)」すならち<エンジニア>という呼称がうまれたのもルネサンス期である。 (引用終わり)
ボクは現役時代にはエンジニア(技術者)と自称することに拘っていましたけど
「天才を与えられし者」だという意味だとしたらちょっと小っ恥ずかしいなとなってしまいますかね。
ただ、欧米ではこのような伝統からかエンジニアが大切にされ尊敬されるのに対して
日本では軽んじられる傾向があるのは哀しいなぁと思っていたところでもありますけどね。
「科学と<ファジィ>」では、ファジィ理論はなかなか正当な科学とは認められないとしながらも
工学分野では取り入れられているなどについて論じられていて
確かに1990年代ではファジィ理論は取り沙汰されていたなぁと思いつつ
ボクはきちんとファジィ理論について勉強したわけではないですが概要的には把握していて
仕事の中でも応用的に使っていたなぁと懐かしく思いました。
この辺りの科学(理学)と工学(技術)の違いは企業で働く技術者にとっては難しい問題ですしね。
本文では次のようにたとえ話をもちいて議論が展開されています。
(以下引用)
教習所では生徒は自動車の運動方程式を教わることなく、「ハンドルを右に切りながら前進し、左
に戻して止まる。つぎに右に切りながら後退し、左へ戻す。失敗したらやり直す」と教わって、駐車でき
るようになるのである。自動車の精密なモデルは要らない。「ハンドルを右に切れば、右に曲る」「アクセ
ルを踏めば前進する」「ブレーキを踏めば止まる」といった大ざっぱな車の動きの仕組みを知ればよい。
(中略)
「あいまいにすればうまく行く」というファジィ理論の秘訣はこのことを指している。ここに読み取れ
るのは「好い加減の原理」とも言えるものである。 (引用終わり)
ここまで初歩的な運転ではないとしても、クルマの運転は好い加減なものでもあるし
エンジニアが官能評価と称して○.○点などと評価点を付けたところでこれまた好い加減なものでもあり
だからといって単にいい加減な評価やいい加減な設計だけではクルマは開発できないので
いかにこのいい加減なものを好い加減と理解しつつ良い加減(善い加減)を探るかに苦心するわけで
それもまたエンジニア冥利に尽きる仕事になるわけですな。
また、「日常性の快楽」では、次のような内容から始まります。
(以下引用)
我々が日常用いていることばのなかには、一方我々の行為を導いたり生を規定する力を持ち、そのこと
のゆえに(?)それが示す事柄の「何であるか」がいわば自明のものとして問われないままに了解されてい
るが、他方いざその「何であるか」が問われた場合には答えに窮してしてしまう。(中略)ここで我々が
取り扱おうとしている快楽をめぐることがらに関しても類似の状況が存しているように思われる。
(引用終わり)
ここでは、「うれしい」「たのしい」「気持ちいい」など“快楽”とは何かについて追及してるのですが
個人的にはそれは今のスバルが提唱している「安心と愉しさ」の“愉しさ”にも通じるものがあって
なかなか興味深い内容となっていました。
というか、ボクが初代フォレスター=79Vの操縦安定性の目標で謳った「安心と悦楽」の“悦楽”に通じ
その時にわざわざ“悦楽”というちょっと一般的でない言葉を使ったのは
その当時に社内で単に“愉しさ”と使うとまったく違った意味に誤解される懸念があったからなのですし、
もし当時にこの本に出遭っていたらなかなか示唆的なものを汲み取っていたかもしれないですなぁ。
その当時のスバルの社内での「愉しさ」とか「走り」という言葉の意味するものと
今の「愉しさ」とか「走り」という言葉は全然違うものというか次元が違う言葉になっているし
おそらく社員の多くの中で共有されている概念の言葉になっていると思いますし思いたいですけどね。
それにしても、もう無職になって関係なくなってからこんな本読むのも我ながらなんだかなぁですな(汗)
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