新書「邪馬台国再考」を読了
ちくま新書の「邪馬台国再考 ――女王国・邪馬台国・ヤマト政権」小林敏男著を読みました。
その邪馬台国論争については今まで色んな人が色んな説を展開してきて
ボクも幾度となく本などでそれらに触れてきたわけですが
決定的な考古学上あるいは新しい古文書などが発見されない限りは結論は出ないと分かっていながら
またこんな本を買ってきて読んでしまったわけです。
ちょっと前にも「古代史講義」で邪馬台国論争にも触れたばかりなんですけどね。
ちなみに、著者は歴史学者ですがその中でも文献史学、つまり文献から歴史を研究している人です。
ですから考古学的発見などは専門外ですが本書ではいちおうそれらも踏まえて書かれてはいます。
本書の表紙カバーの袖には次のように紹介されています。
(以下引用、改行位置変更)
長年にわたり論争となってきた邪馬台国の所在地。考古学では、纏向遺跡の発掘により畿内説で
決着したとされるが、歴史学の文献研究では『魏志倭人伝』の記載から九州説が支持されている。
本書はこの矛盾の解決を図るべく、畿内ヤマト国(邪馬台国)と北九州ヤマト国(女王国)が併
存していたとし、卑弥呼は後者の女王と考える。さらに『日本書紀』『古事記』などの史書や大
和朝廷に直接つながるその後の歴史との親和性・連続性も検討し、文献史学と考古学の研究成果
の調和を目指す。 (引用終わり)
もうこの部分で既にネタバレみたいになってしまっていますが
もちろんそれは著者の主張の骨子というだけでそれが正解というか事実かどうかは依然として不明で
またそのように著者が考えるに至った経緯や史料などについては本文を読まないと分かりません。
また、本書の帯には「卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった」と書いてあり
じゃぁ卑弥呼って誰? 邪馬台国の女王は誰? って思ってしまうでしょうけど
もちろんそれは帯特有のあおり文言ですから冷静にとらえないと早合点してしまいます。
というよりも、その帯の上部の表紙カバーに書かれていることも本書の概要ですけどね。
画像では読みづらいでしょうからその部分も引用しておきましょう。
(以下引用)
……本書の核心は、北九州のヤマト国である女王国と畿内ヤマトの邪馬台国と
を分離し、その併存・対立の関係性を考えることであった。…問題となるのは、畿
内ヤマトの邪馬台国が北九州の女王国を打倒し、ヤマト政権からヤマト王権
へと展開していく四世紀の時代の様相をどうとらえるかである。(引用終わり)
ただし、四世紀の時代は日本の記紀でも信憑性が問われている時代だし
大陸・半島の史書でも日本(倭国)については書かれていない空白の時代ですから
その部分については著者の推測は述べられているものの
やや具体性や説得力に欠けるきらいがあります。
そして、上述のように著者は魏志倭人伝が書かれた頃(西晋)では
北九州と畿内の両方にヤマトが併存していて
魏志倭人伝を書いた陳寿も両者を混同してしまったのだとしています。
なので、魏志倭人伝における邪馬台国とは畿内ヤマト国のことであり
卑弥呼については北九州ヤマト国=女王国のことを書いているのだとしています。
なんだか邪馬台国の北九州説と畿内説の対立の折衷案的にも聞こえてしまいそうですが
まぁボクもそれに近いものではないかと漠然と思っていたので特に違和感のない説ですかね。
そして、北九州説と畿内説との最大の論争の種となっている行程記事については
著者は次のような解釈をしています。
(以下引用)
こうしてみてくると、陳寿の机上には少なくともA・B二つの別々の行程史料があった
のではないか。
A 郡→対馬→一支→末盧→伊都→女王国→狗奴国
B 郡→対馬→一支→末盧→伊都→奴→不弥→投馬→邪馬台国
(中略) その女王国は国の名としては、伊都国から南千五百里の地点、
すなわち北九州の「ヤマト国」(筑後国山門郡山門郷)とみるのが妥当な線であろう。
(引用終わり)
ここで起点となる“郡”とは西晋の朝鮮半島での出先機関があった帯方郡のことです。
このように2つの行程史料があったのでAでは〇〇里という大陸の距離表記がなされ
Bでは「水行十日、陸行一月」など日数表記とまったく異なる表現が混在しているとのことです。
また、興味深いのはこのBでの“投馬”国とはどこかという点にも次のような解釈がなされています。
(以下引用)
投馬=出雲説に関して、『太平御覧』所引「魏志」には投馬国のみ「至於投馬国」と
あって上に「於」が付せられている。この点について末松保和は、国名の一字としてとら
うた。すなわち、「於」が助詞の「に」ではないことは、他の国名の上には「於」が一つ
もついていないことを指摘して、「於」の古音に“ウ”(wu)、“イオ”(iwo)“エ”(ö)な
どがあるから投馬国=於投馬国は「エトモ」もしくは「イヅモ」に近づくことになるとし
て、投馬国を出雲の地に比定した。 (引用終わり)
元は著者の主張ではないもののこの説の上に立って「水行十日、陸行一月」とは
出雲から瀬戸内海ルートではなく日本海ルートで敦賀から上陸して大和に向かうのを想定しています。
まぁその他様々なことがこの本では述べられていますけど概して納得しやすい内容のものでした。
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