社会人になっても自動車部に入ってた時があった
以前、大学では自動車部にいちおう所属していたことを記事にしました。
中学・高校でハンドボール部だったので体育会系という切り口での記事でしたから
これで完結というつもりだったのですが……
そういえば社会人になってからも自動車部に入ってたこともあったなぁと思い出したので
体育会系とは無縁なんですが、その辺のことをとりとめもなく書いてみることにしましょう。
先ほどは自動車部と書きましたが正式には「部」ではなくて自動車同好会でした。
その時の写真がありましたから載せておきましょう。
30年ほど前の写真なので皆さんの顔のモザイクも必要ないでしょう。
ご覧のように自動車同好会と言ってもほぼ自動車レース同好会ですね。
この写真の撮影年からすると1990年から1995年くらいまでボクはやっていたようで
1990年に初めて同好会が作られてそこから5年くらいやっていたということになりますかね。
当時のその会社(富士重工)には実業団としての野球部が(今は陸上部も)あって
これは別格で全従業員からは強制的に後援会費という名目で給料から天引きされていたし
大卒新入社員は全員(ボクが入社した年は新入社員が多かったので半分ほどが)
野球部応援団に加入させられて強制無償応援をさせられるという具合でしたが
それ以外では製作所ごとに様々な部活動がありました。
とはいっても会社の基本は仕事する場ですからそれほど部活は盛んではなくて
好きな人だけが集まってやっているという程度であったと思います。
というか周りに体育会系・文科系問わずにに部活動に精を出している同僚や先輩もいなかったです。
ですからどんな部活があるのかもよく知らなかったしましてや入ろうとも思ってなかったです。
ところが、1990年ごろでしょうか、職場の後輩が発起人という形で自動車同好会がはじまったのです。
そう、それまでは富士重工の群馬製作所には自動車部、自動車同好会なるものはなかったのです。
たしか、東京事業所(三鷹製作所)には自動車部があったか同時代にできたという感じだったかな。
自動車メーカーに自動車部がないのが不思議なのか、逆にあるのが不自然なのか分かりませんが
個人的にモータースポーツなどやっている人はそこそこいても部活動としてはなかったんですね。
まぁモータースポーツなんてメーカーの宣伝としては別ですけどそれ以外では個人的にやるものですが
レースマシンの準備やら整備場所の確保やらいろいろと金はかかるしで個人の負担は大変ですから
若くて実績のない人が始めるのはハードルが高いので同好会として集まってやろうという狙いですね。
会社からの活動資金としての資金援助なんて無いに等しかったのですけど
幸いにも実験部署に配属されていたので廃車寸前の試験車(もちろん量産車ですが)やら
整備工場やら工具やらキャリアカーやらのやりくりはなんとか便宜を図ってもらおうということです。
けれど、当時の富士重工のモータースポーツは会社として参戦しはじめたWRCは別とすれば
それ以前のサファリラリー参戦なども資金や資材の流れがとても不透明で
それは親分vs高○祥朗や群馬・上州オートクラブvs東京・チームスバルの派閥争いもあったし
それ故に会社上層部もコントロールできずに裏で金や物が動いているという腹黒い世界でした。
その体質が個人資格でモータースポーツに参戦していた人にも大なり小なり影響を及ぼしていて
全日本ラリーや全日本ダートラに参戦するにも完全に個人資格と言えないような形になってたようです。
まぁスバル車でスバルの名を出して富士重工社員がやってるわけですから線引きは難しいですが……
発起人となったその後輩もそういう腹黒い世界とは無縁なところで
ボクらもモータースポーツをやりたいという思いがあったのだと思います。
ボク自身はモータースポーツに参戦すること自体はそれほど興味がなかったのですが
(というより、早々に腹黒い輩が群がる世界を見てしまったので関与したくなかったのが本音)
上記のような発起人の志には賛同するところも多くて自動車同好会に参加することになりました。
この自動車同好会では楽しいことも哀しい(メンバーの一人が亡くなった)こともありましたけど
ボク自身はモータースポーツに参戦すること自体はさほど興味がなかったと言いつつも
一度だけ筑波サーキットでの耐久レースに先輩と後輩と3人ドライバー体制で参戦したことがあります。
先輩・後輩といっても上司・部下という関係でもあって誘われるがままの参戦でしたね。
結果はブレーキ・トラブルでのリタイアでしたな。
初代レガシィはブレーキが弱点で筑波サーキットを数周しただけでフェードしてしまうほど脆弱でした。
もっとも当時の同クラスのターボ武装した重量級ハイパワー車は似たようなものでしたし
そんなことは端から分かっているので耐久では騙し騙し走らなければならないのに
先輩で上司でありかつ全日本クラスのモータースポーツ経験も豊富な人が
独りよがりでバカみたいにぶっ飛ばして一瞬にしてブレーキをご臨終させてリタイアする羽目に……
なんて自己中な人なんだと呆れた次第ですけど、その人はそもそも自動車同好会の正式メンバーでないし
みんなでコツコツをマシン作りに参加していた人でもないので
耐久レースで完走する意義も何も感じていなかったんでしょうね。
ということもあったりして、こんなことよりラジコンレースやら車関連のオフ会やら
会社の枠(ラジコンは社員が中心だけど)にとらわれない趣味の方が忙しくなったこともあり
自動車同好会の活動は5年ほどで疎遠になっていきましたね。
それと、自動車同好会(もしくは自動車部)では自動車メーカーの公認クラブということになるので
基本的にJAF公認以外のレースに参加するべきではないというポリシーを持っていました。
でも、軽耐久など非公認レース(もどき)にも参戦しようという動きも徐々に出てきてもいたので
自動車同好会からは完全に足を洗うことにしたという経緯ですかね。
同時期にボク自身もJAFライセンス(国際C級)の更新を已めて
JAF会員からも脱会したという感じだったかな。
ちなみに、モータースポーツ参戦にさほど興味がなかったし上述のような嫌な経験もしたボクですけど
アイドラーズ12時間耐久には10回以上も参加してきたという過去もありますし、
よしともカップといったレースもどきにも社内の同僚や社外の知人たちと参加したこともありました。
それはひとえにこのチームはメンバー全員が耐久レースらしく完走目指して走ろうということで
とても楽しいチームだったということが大きかったのだと思います。
アイドラーズもよしともカップもどちらも非公認レース(もどき)でしたけど
基本的に会社とは無関係で完全に個人所有のマシンで個人資格での参加でしたし
その時はボクはもうJAFライセンス所持者でもなかったから何の後ろめたさもなかったですしね。
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