新書「資本主義から脱却せよ」を読了
光文社新書の「資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す」
松尾匡/井上智洋/高橋真矢著を読みました。
前回読んだ「脱成長」と似たような論点の内容かなと続けて読み始めたのですが
どうもそこまで成長とは完全に無縁になるというかそこを主眼にするよりも
今の資本主義から部分的にでも改良型ででも少し考え直してみようという程度の感じでした。
著者は3名で、そのうち松尾匡氏、井上智洋氏はともに大学教授で経済学者ですが
高橋真矢氏は自称「現役不安定ワーカー」だそうでそれ以上あまり情報はないのですが
経済学者とかではなくおそらくまだ若くて著作も他にそんなになさそうです。
3人が対談したとの旨の記述もありますが、本書は対談本ではなくそれぞれ3名が別々に著してます。
ただ、高橋氏が全体を総括したり比較したり橋渡ししたりと案内人的役割も果たしているようです。
なお、井上智洋については3年ほど前にこちらの「人工知能と経済の未来」の本を読んでましたね。
この本ではお金・貨幣の歴史、資本主義の歴史などから話が始まっていきますが
最初にハッとさせられるのは、次のような物々交換時代の否定です。
(以下引用)物々交換の時代に時間の針を戻すことはできない。昔の時代にはもう戻れない、
という意味ではなく、日常生活が物々交換で成り立っていた時代など存在しなかったから。
「お金という便利なモノが発明されるまで、人びとは物々交換をしていました」という仮説
を立てた人は確かにいて、それが大々的に広まったようだ。(中略)
人類学でも考古学でも、物々交換が日常生活の中心として機能していた社会の文献や記録
は不思議なほど見つかっていない。確認されているのは「例外的/非日常的」な特殊取引と
しての物々交換だ。(中略)
人類の営みのスタートとして今のところ確認されているのは、交換ではなく贈与(ギフ
ト)であり共有(シェア)だった。 (引用終わり)
確かにボクも物々交換の時代があったのだと思い込んでいましたから目から鱗の話ですが
でもよくよく考えてみると確かに日常的に物々交換するのは不自然ですね。
そして、物々交換よりも貸し借りの方が自然というのもよく分かりますし
そこから文字とお金が生まれてきたという方がしっくりくる話です。
こんな話から始まって銀行、中央銀行、政府の関係などの話まで分かりやすく進んでいきます。
そして、そこで銀行批判、銀行の信用創造に対する批判が著者たちの主張となっていきます。
かなり長いですけど分かりやすく説明されている部分を紹介しましょう。
(以下引用)
現実の世の中で貨幣の多くがどのように創られているのか、改めて確認しておこう。
ある企業が設備投資のために銀行から1億円借金をすることになったとき、その銀行は、
当該企業がその銀行に持っている預金口座に1億円と書き込む、それだけである。
その口座の1億円が、従業員や仕入れ先の預金口座に振り込まれて、支払い手段として世
の中に流通していくのである。これが信用創造と呼ばれるものである。
世の中に出回っている貨幣の大半は預金通貨であって、現金はごく一部にすぎない。だか
ら、世の中に出回っている貨幣の大半は、民間の銀行によって無から創られたコンピュータ
上の電子データなのである。
問題はこれが、社会のニーズに直接基づいて決定されるのではない、私的企業による孤立
排他的な営利目的の判断による借り入れに対して、これまた孤立排他的な利子獲得目的の私
銀行の判断で応じることで創られるものだということである。 (引用終わり)
新型コロナ禍で「政府がじゃんじゃんお金を刷ってばらまけば良い」なんて意見も聞きましたが
現金なんかよりもこのように企業と銀行の信用創造によって世の中のお金が創られているわけですね。
企業も銀行も自分のためだけに信用創造するわけですから世の中のことなんて考えてないし
そこに政府が直接コントロールできないわけなので国民にも必要なお金が回らないわけですな。
まっ逆の意味でなんらかの“働きかけ”したくて失言しちゃった某大臣もいますが……(汗)
そして、高橋氏は次のようにまとめています。
(以下引用)
井上さんは(そして松尾さんも)銀行が多額の借金を作る(創る)ことを可能にす
る仕組みそのものを廃止=信用創造の廃止を訴える数少ない論者である。(中略)
もちろん井上さん、松尾さん共に「貧しい日本」を目指しているわけではない。特
に井上さんは市場社会を否定するのではなく、その力点は「脱労働社会」に向けられ
ている。 (引用終わり)
つまり、この本のタイトルにもなっている「資本主義からの脱却」の意味するところは
資本主義そのものや市場社会の全否定ではなくこの信用創造から脱却する意味なわけです。
そして、井上氏の「脱労働社会」も資本主義から脱却するためではなく
AI発達後の展望として次のように語られています。
(以下引用)
私は、AIなどの自動化技術が進歩し普及した挙句に、直接的な生産活動を機械だけが行
う「純粋機械科経済」が到来し、人々が生活のために賃金労働をしなくても良いような「脱
労働社会」が到来することを予測しているとともに待望している。(中略)
遊んで暮らすことのできる脱労働社会がユートピアであるかどうかという点については、
大いに議論の余地があるだろう。ただ、多くの調査結果が賃金労働をしている人よりも、し
ていない人の方が生活満足度が高いということを示している。
加えて、年輩者が労働に価値を置く傾向があるのに対し、若い人はそこまで価値を置いて
いない。「レイバリズム」(労働主義)は徐々に力を失っており、今後のAIの普及に伴って
この価値転換は加速する可能性もある。 (引用終わり)
なかなか興味深い話です。
ボクは賃金労働をしていた現役時代より労働をしていない今の方が相対的に生活満足度は高いですが
ただ生まれてから一度も労働をしない脱労働社会がユートピアかどうかは確かになんとも言えません。
それでも、若い人の方が労働主義でなくなってきているというのはなんとなく分かる気がします。
レイバリズムという言葉は初めて聞きましたけど。
笑えるような面白いと思ったのは松尾氏の現政府・菅首相に関する次の記述です。
(以下引用)
菅首相を揶揄する呼び方はいろいろ生まれたが、唯一あたっているのは「スガーリン」だ
と思う。そう、居並ぶ政敵を次々追い落とし、何百万人もの命を軽々と犠牲にして独裁工業
大国ソ連を築いた、世界史上最大の狡知者スターリンのもじりである。 (長い中略)
だから、菅首相を指して「中身がない」とか「国家像がない」とかいう評ほど的外れなも
のはない、彼は骨の髄までの新自由主義者で、日本の支配層に共有される未来像の実現のた
めに、不退転の決意で、帝国主義へ至る淘汰の道を推し進めようとしているのだ。
(引用終わり)
まぁ笑えない内容と捉える人もいるでしょうけど、是非はともかくボクも同感なのでねぇ。
松尾氏が具体的に何をもって「スガーリン」と揶揄しているのかというと、
(以下引用)
――要するに、中小個人事業はコロナ禍で淘汰されるにまかせて、吸収合併などで大規模
化を進め、富裕層向け高付加価値ビジネスや、ハイテクでグローバル展開したところだけ生
き残らせてやろうというわけである。 (引用終わり)
確かにこのような視点で見れば今の政府がやっていることに合点はいきますかね。
スガーリンだけでなく上述の某大臣の発言も同じ根っこがあるから出てきたとも考えられますし。
ただ、コロナ禍である程度淘汰が進むのは当然とも言えるしある面ではチャンスとも言えますけどね。
もちろん富裕層向けが良いのかとかグローバル化が良いのかとか個別の議論はありますし
淘汰された側の人の保障(補償ではない)は必要不可欠だと思いますけど……
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