« 久しぶりにラリっ娘にて鳴馬良の味噌カツラーメンを食す | トップページ | 五色そうめんの「7色そうめん」を全色食べてみた »

新書「脱成長」を読了

B210609_1 B210609_2 
白水社の文庫クセジュ(Que sais-je? )の「脱成長 La décroissance」
セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)著・中野佳裕訳を読みました。

2冊ではなくて、左画像のようなほぼ全面帯もしくは二重カバーとも言えるようになっていて
その帯を脱がすと右画像のような表紙カバーとなっています。
クセジュというのも聞いた事がなかったですがフランスの本のシリーズだそうです。
なので、著者はフランス人で、この本は2019年にフランス語で書かれたものを
訳者が日本語に訳して昨年2020年11月に発行されたものになります。

ちなみに、帯に書いてある《『人新世の「資本論」』の斎藤幸平氏推薦!》とあるのは
ボクもちょっと前に読んだこの本および著者のことですね。

 

ここでの“成長”は生物や人間の身体の成長でも精神面の成長でもなく国家やグローバルの経済成長で
単純に“脱成長”と言えば経済成長をしないorマイナス成長という意味に捉えられるかと思われますが
冒頭の序章にて次のように書かれています。

(以下引用)           この語は曖昧さを回避できなかった。その曖昧さは悲劇的ではな
いが、よく意識しておくとよいものだ。この語は文字通りの意味で理解される可能性がある。つまり、
国内総生産(GDP)――富を測定するものとして盲目的に崇拝されている統計指標――の成長曲線を
真逆にしたものという意味で、だ。あるいはこの語は象徴的な意味で理解される可能性もある。つまり
経済成長イデオロギー、生産力至上主義から抜け出すという意味だ。    (中略)     経済
成長はある種の信仰でもある。それは、際限のない進歩に対する信仰であり、際限のない資本主義が可
能であり望ましいという考えに対する信仰なのだ。したがって、脱成長はこの信仰を冒涜する言葉でし
かないといえる。  (中略)      この「a」というギリシア語の欠性辞を使って、脱成長と
いう語を「経済成長を崇拝しない態度(acroissance)を指す語として使用しなければならないだろう。
                                       (引用終わり)

経済は成長し続けなければならないとされることに疑問を持つようになっているボクですから
この「経済成長を崇拝しない態度」としての“脱成長”はまさにボクが今考えたいことです。
それに、経済成長を信仰だと見立てるところなどは、宗教もお金も経済もすべて人間の虚構とする
サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリ氏に通じる考えだなとも感じます。

一方で、似たような語として最近特に使われるSDGsについて著者は次のように一蹴しています。

(以下引用)                                     単一的
思考のイデオロギーの勝利のもう一つの顔は、国際社会で合意を得た「持続可能な開発」というスロー
ガンに他ならなかった。このスローガンは、地球生態系危機に直面した経済成長という名の宗教の救済
を試みていた米国の産業ロビー団体の圧力の下で、国際連合環境計画(UNEP)が進捗した撞着語法
である。                                    (引用終わり)

恥ずかしながら“撞着語法”の意味が分かりませんでしたorz
撞着(どうちゃく)語法は意味が矛盾する言葉を意図的に結びつける表現方法だそうです。
まぁ、何かとSDGsを口にしている著名人・有名人を見ると非常に浅はかに見える人か
偽善的で腹黒い人にしか見えないので、ボクはもともとインチキスローガンとしか捉えてませんけど……

 

そして、脱成長をするにはまずは消費社会から抜け出さなくてはいけないと語られています。
                                        (以下引用)
 消費社会は経済成長社会の当然の帰結だ。それは三つの無制限の上に成立している。第一の無制限
は、際限のない生産、すなわち再生可能な資源と再生不可能な資源の際限のない搾取である。第二の無
制限は、ニーズの際限のない生産――すなわち薄っぺらな生産物の際限のない生産――である。第三の
無制限は、ゴミの際限のない生産、すなわち廃棄物と(大気・土壌・水質)汚染の際限のない発生である。
                                       (引用終わり)

こういうところでも、安易に温室効果ガスとかCO2とか分かったような顔で持ち出さないのが
著者の見識のあるところだなぁと思います。
経済成長は資源を際限なく搾取し、際限なく生産し、そのために際限なく消費を煽り、
際限なくゴミを出すというわけで、それをどこかで断ち切るには消費社会から脱却すべきということです。

だからといって、産業革命前に戻れとかましてや自給自足の旧石器時代の生活に戻れという主張でもなく
どこが着地点であるのかは人それぞれであるでしょうけどね。
まぁでもボクなんかは自慢じゃないけど今ではそれなりに消費社会からは距離を置いてる気がします。
といってもあくまでも先進国・日本で暮らしている人の中ではというぐらいでしかないですけどね。

でも大切なのはさっき「自慢じゃないけど」と前置きしてしまいましたが
面と向かって「自慢できる」社会であれば、それが脱消費社会になるということでしょう。
高いモノやサービスを消費していることが自慢になるのではなくむしろそれはダサイことと見なされて
ささやかな楽しみが自慢になるというかそれが自己満足でいいじゃんという社会が望ましいですかね。

そういう意味では、日本でも少しはそのような脱消費に向かう流れも出ているような気もしますし
世界的にも軽薄にSDGsを口にしている人でも結果的には脱消費の流れに乗るかもしれません。
それが新型コロナ禍を経て脱消費が加速するのであれば結果オーライかも。
まっ新型コロナが終息すれば反動はあるでしょうけどそれが一過性なのかどうかが見物ですかね。

|

« 久しぶりにラリっ娘にて鳴馬良の味噌カツラーメンを食す | トップページ | 五色そうめんの「7色そうめん」を全色食べてみた »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 久しぶりにラリっ娘にて鳴馬良の味噌カツラーメンを食す | トップページ | 五色そうめんの「7色そうめん」を全色食べてみた »