SKC(スバル葛生コースではなくスバル研究実験センター)
前回記事で入社後の14年間で8回目となる突発人事異動で、勤務地も群馬県太田市から
栃木県佐野市(当時は葛生町)のSKC(スバル研究実験センター)になったと書きました。
そのSKCでボクがどんな仕事をすることになったかはまた別の機会に記事にすることとし
今回はその当時のSKCについて簡単に説明することにしましょう。
その前に、それまでのテストコースは(現在もありますが)群馬県太田市の本工場の東側にある
1964年に作られた1周約1.6kmのオーバル周回路などがあるテストコースです。
スバル360の発売が1958年、スバル・サンバー(初代)の発売が1961年ですから
これらのクルマはテストコースも何もない時代に開発されていたことになるわけです。
じゃぁどこでテストしていたかというとほとんどは一般道、舗装されてない赤城の峠道でしょうね。
まぁそういう時代だったんですよね。
さすがに、1966年発売のスバル1000はこの本工場テストコースで開発したんでしょうが
この頃には日本自動車研究所(JARI)の旧・高速周回路(@つくば市)も完成しており
そちらは1周5.5km、設計最高速度180km/hですから
1周1.6km、設計最高速度(100~)120km/hの本工場テストコースが
いかに貧弱で情けなかったのかは言わずもがなでしょうな。
しかも、そのまま20年以上もそのテストコースしかなかったわけですからね。
もっとも、群馬県&東京都に開発拠点のあるスバルだと地理的にJARIのテストコースが比較的近く
必要に応じて借用しやすく、それ故に自前のテストコースの充実を怠ったとも言えますけど、
やはり貧乏会社というか研究開発費を徹底的にケチるケチケチ体質の会社だったんだと思います。
それは、高速周回路だけでなく実車風洞や横風試験機などもほとんど同じで
自前の試験設備は無いかあっても貧弱でJARIまで出張して借用していたのが続いたわけです。
JARIで試験すればそれで足りるといっても、思い立ったらすぐに行けるわけでもなく
試験車両を運搬するのも当時は業者に任せずに全部自分たちでやって
借用料金の安い夜間にぶっ通しで試験してくるわけですから
効率が良いわけではなくまた実験部員に負担を強いていただけのことですからね。
研究開発費に投資しないということはすなわち技術&技術者を重視してないことの証左ですし
キャッチコビーで「技術の……」なんて謳いながら技術軽視を長年続けていたのが
当時のスバル=富士重工という企業体質だったわけです。
そんな企業体質だった富士重工が一瞬ですがバブリーになった時が
日本興業銀行から富士重工の副社長を経て1985年に社長就任した田島敏弘・元社長の時代です。
バブルと言っても日本経済のバブル景気とはまったく違いますし
バブル景気の時の富士重工はプラザ合意後の円高不況で赤字続きでしたので
単に田島元社長の経営手法が良くも悪くもバブリーだったという意味です。
先ず、田島元社長は就任直後に新卒社員、特に技術者の大量採用に踏みきります。
そう、1986年度入社のボクはそのため苦も無く富士重工に入社できたラッキー者なわけです(笑)
また、SIA(スバル・いすゞ・オートモーティブ、現スバル・インディアナ・オートモーティブ)を
設立し、現在のスバルの米国工場の礎を築いたのも田島元社長の功績ですし、
その功績の中にはSKCの建設・稼働も含まれていて現在のスバル車開発の場ともなっているわけです。
ですから、当時の興銀&日産の支配下にあった富士重工としては異色の社長として
個人的にはそれらの功績は高く評価したいなと思っています。
もっともSIAは円高と輸出規制によって止むを得ず米国進出させられた感がありますけどね。
なお、田島社長時代に初代レガシィが発売されたのでそれを田島元社長の功績とする向きがありますが
初代レガシィの開発は副社長時代に始まってますからあまり決定的な英断をしたわけではないでしょう。
それに、何故か日本国内では初代レガシィが富士重工の救世主だったみたいな話が語られますが
何度か書いているように初代レガシィは開発費が膨大に膨らむ一方で主要市場の米国で売れ行き不振で
その結果当時の富士重工は赤字に転落していくわけですから救世主ではありませんでしたね。
(かといって、初代レガシィを失敗作呼ばわりする意図はないし個人的な怨みもありませんが)
そんなこんなで、1989年に開設されたSKCですが
1周約4.3km、設計速度180km/hのオーバル高速周回路などがあるテストコースです。
ちなみにですが、SKCの高速周回路は東側と西側直線部分に高低差があり西側が高くて
それを北側と南側のバンクで吸収というか誤魔化しているというおそらく世界的に稀なコースです。
なので、北バンクは登り、南バンクは下りになっているので気を抜くと速度が上がってしまいます。
どうしてそんな設計になっているのかというと、西側は山を削って東側は土を盛って整地したため
建設費を安く上げるために削る量/盛る量ともに少なくしたかったということです。
当時の田島元社長はバブリーではありましたけど赤字状況下ではケチらざるを得なかったのでしょう。
また、西側直線とそこに接するスキッドパッドが高いところにあり東側に遮るものがないので
向こうの山から丸見えで超望遠レンズで盗撮されやすいという大きな欠点もありましたし、
さらに山側もケチって山の稜線までしか土地購入しなかったので
反対側から山の稜線まで登ればこれまたテストコースが一望できて盗撮されやすいというずさんさです。
こんな、どうぞ盗撮してくださいと言わんばかりのあられもない無防備なテストコースを造っておいて
発表前の機密車を盗撮されようものならその時の運転者・実験者の責任とされ
営業部などから実験部署は何をやっているんだと叱られるんですから、たまったもんじゃないですよね。
まぁ、ボクは幸いにもテストコース内で盗撮されることはなかったですし
テストコース外の走行試験でも盗撮されたのはこの1回( )しかありませんし
その時は盗撮上等という条件でしたからもちろんお咎めなしでしたけどね。
それから、SKCも今では様々な試験路や設備や建屋が所狭しと設置されてますが
最初は確か高速周回路の他に旋回半径100mが可能なスキッドパッドと
高速ブレーキ試験路くらいしかなかったと記憶しています。
建屋も高速周回路の外側に管理事務所兼実験部員用の居室、そして小さな食堂、
オーバルの内側に整備室が2棟だけだったかな。ちょいと記憶があやふや。
確かハンドリング路はその後しばらく遅れてから作られたと記憶してます。
SKCのハンドリング路の構想にはボクは直接携わってはいませんでしたけど
折り込むのに良い路面はないかとのアドバイス募集もあったので幾つか提案した覚えがあります。
そう、実際の一般道などで特徴的な路面形状を測ってきて取り入れるようなことをしてたわけです。
ただし、ここでも自称・親分とかいう人が横槍を入れてきて
ハンドリング路を使ってスポーツ走行イベントみたいなのを開催したいということで
ミニサーキット的な、つまり一般道ではまずあり得ないような
バンク角(カント、横断勾配)の強いコーナーに高グリップの舗装を施したものになってしまいました(呆)
本来ハンドリング路は道端に植木をしたり浅い側溝を設置したりして
運転している気分も含めて環境をなるべく一般道に近づける工夫をしなければならないものなのにねぇ。
そういう経緯もあったりして、ハンドリング路=一般道での走行を模した試験路ではなく
ハンドリング路=ぶっ飛ばして走るサーキットという認識を持つ人が多くて
日頃一般道で飛ばしたこともない人が浮かれてあるいは勇んでぶっ飛ばして事故るの繰り返しでしたね。
で、事故が絶たないので、営業など素人の試乗会を開催する時にはコース上にパイロンでシケイン作り
さらに一般道ではあり得ないような雰囲気の中で試乗をさせるなんて本末転倒なことに……
走行する側も管理する側もハンドリング路=サーキットと思っちゃってるからどうしようもないんですな。
さて、本日の記事はこの辺でいったん終わりとしましょう。
次回はSKCだけに限らずテストコースの走行ルールというか管理体制とかにちょっと触れてみましょう。
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コメント
>JETさん
こんばんは。
私がバス工場で勤務していた時、V〇LV〇シャシーの車両を販売することになり、型式認定の審査?でJARIへ行くことがありました。
本番前に練習でJARI のコースを借りたとき、もったいないからと乗用車で乗り込んで、一緒に走らせてくれと言ってきた集団がありました。
バスとは速度レンジが全く違うので安全なのか危険なのか、私が関与できる次元の話ではありませんでしたが、思えばあのとき指揮をしていたのが親分風の方だったと思います。
バス工場勤務とはいえ当時は〇フ関係者でしたからT岡K関の名前くらいは知っていましたので。
バス工場といえばもちろんテストコースなどありません。
当時i勢崎市へ、従業員の勤務中に選挙活動させて市議を送り込み、その力でAートRース場の駐車場で走行試験をしていました。
悪路を走りたい時はT根川河川敷です。
その辺はスバル360開発スピリットを継承していたと言えるのでしょうか?
伊勢崎だけに。
投稿: B10M | 2021-02-06 18:31
>B10Mさん
バスと乗用車の混走は速度にもよりますがJARIらしく乗用車が180km/hとか出すとなると安全とは言い難いでしょう。
日本の高速道路と同じくらいの80~100km/hなら大丈夫でしょうけど、
それでもお互いバンクの走行が慣れているという前提でしょうね。
それと、ボクが入社当時はまだT根川河川敷は仕事で走ってましたね。
太田市のT水橋近くで、しかも深夜ですけど。
テストコースとして砂利路もあったのですがそちらは砂利石のチッピング&錆の評価としてのコースだったので
砂利路をぶっ飛ばす謎の試験をしていた我々は路面を荒らすので走らせてもらえず
夜な夜な河川敷の砂利道を当局の許可なく走って荒らしてましたorz
イタチもウサギもキビも何匹・何羽も轢いてしまいました(合掌)
もっとも親分にとってはそれにかこつけて闇夜に紛れてやる別の仕事があったようですけどね(汗)
投稿: JET | 2021-02-06 18:51