「新田三兄弟と南朝 義顕・義輿・義宗の戦い」を読了
ボクは中世日本史にそれほど興味があるわけではないのですが
先祖書によれば「祖先新田苗裔(びょうえい)」となっているので
新田一族について少しは知っておこうと見つけた時にふと思ったからです。
内容的には、タイトルにもなっているように新田義貞(1301~1338)の子である義顕・義輿・義宗という
三兄弟の時代の日本の歴史を中心にその後の新田一族の動向を史実に基づき研究・解説されています。
「(古典)太平記」の時代と重なりますから「(大河ドラマ)太平記の里」の時代背景とも重なります。
もっともボクは大河ドラマは観てませんし、太平記の里は足利氏の方の主観から描かれたらしいので
あまり新田氏の方には詳しくなかったのかも分かりません。
いずれにしてもこの本は物語的な読み物ではなく歴史考証としてまとめられてますから
太平記の記述だけでなく当時の様々な書物・資料などの記述から多面的に
事実関係とその背景を検討している内容となっていますが、
それについてあれこれここに書くのはやめておきましょう。
ご先祖様との繋がりという点では、先祖書で遡っての最初が16世紀末からですし、
この本の新田三兄弟の末っ子の義宗でも没年が1368年(諸説あり)ですから
その間200年以上の期間が空いてますので当然ながらなんの手がかりもありませんでした。
まぁもともと何かの手がかりを期待していたわけでもないのでいいんですけどね。
新田一族は何度も足利氏・鎌倉幕府に兵を挙げて戦い、そして敗れて、
一族郎党皆殺しにあって新田の荘からは完全に排除されたというイメージでしたけど
どうもそうでもない可能性もあるみたいなんですね。
三兄弟の義宗にしても阿波に逃げてその後東国に戻ったという説もあるそうですし
三兄弟以外にも新田義貞には子がいたという説もあるようですし
それも含めて戦乱中はまったく表に出ずに黒子に徹した人物がいた可能性も指摘されてます。
まぁ徳川家康も新田氏の血筋とのことなので新田一族がどこかで生き延びていたのは
なんの不思議でもないんでしょうけどね。
最後の方ではこのように書かれています。 (以下引用)
新田氏の嫡流が辿れるのはここまでであるが、このように、応永末期まで東国の各地に隠れ住みな
がら、南朝に縁を持つ国人や神官らを組織した新田氏の嫡流がいたことは事実である。彼は、後醍醐
の息子を擁して北陸に南朝方の拠点を組織した義貞、それを受け継いだ義輿の意思と地位を継ぐもの
であったことは明らかであろう。 (引用終わり)
ここで応永は1394年~1428年ですからまだまだ先祖様まで空白期間が長いですけど
そんな繋がりがあると歴史ロマンとして思いふけることにしましょうかね。
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