新書「動物裁判」を読了
では、その動物裁判って何? ということですが、ざっくり言ってしまえば
人間以外の動物を被告人として裁判して判決をくだすということです。
笑い話や余興や見世物としてではなく13世紀から数世紀の間
中世ヨーロッパ各地ではこんなことが真面目に裁判されていたということです。
しもかその裁判の様子とは、 (以下引用)
裁判では、審理のどの過程においても、人間に対するものとまったく同様なすすめ方を
するよう手はずがととのえられた。極端な例では、動物が判決を獄中でまっており、判決
がくだると裁判所の書紀によってそれが動物にむかってよみあげられる、といった慣習や、
動物を拷問して絞りとった苦痛の叫び声を自白とみなす、といった習わしがあった。
(中略)
驚くべきは、この処刑のやり方も、裁判手続同様、人間にたいする場合と寸分ちがわな
いことである。死刑宣告をうけた動物は、武装した執達史につきしたがわれた車にのせら
れて、刑場にむかい、刑史にひきわたされた。またしばしばおなじ日に、同一の刑史が人
と動物をあいついで処刑することもあった。しかも、人間の死刑囚と動物のそれとで、刑
史に支払われる報酬はおなじであった、というのである。 (引用終わり)
確かに現代的価値観をもとにするとなんともキテレツなものです。
著者でなくともなんでこんなことが欧州各地で長年に渡って行われたのか興味が湧いてきますね。
しかも、これらの動物裁判の被告というものが単に人間に飼われていた家畜などの
牛・豚・馬・羊あるいは犬・猫などに限らずに、そこら辺に棲息していた
(以下引用) ハエ・ハチ・チョウ・ネズミ・アリ・ミミズ・モグラ・
ナメクジ・ヒル・カタツムリ・ヘビ・バッタ・ゾウムシその他の甲虫・青虫・毛虫などの
昆虫、および小動物 (引用終わり)
にまで及んでいて、当然ながらそれらを無理やりにでも出廷されることは無理なので
(以下引用) 職枝を身におびた執達史は、きめ
られた日時に司教代理判事の前に出頭するよう、虫獣に大声で通告した。
さて、出頭予定の日には、裁判所の扉はいっぱいに開けはなたれ、毛虫とネズミの到着
が今か今かとまたれた。規定の遅延許容時刻をすぎたので「不在」が確認された。この召
喚と不在確認の手続が三度くりかえされると、被告は「欠席者」と宣言され、そこでかれ
らのために、弁護士と代訟人が任命された。(中略)結局、破門判決がくだってしまった。
(引用終わり)
いやはやなんと言っていいのやら。
毛虫やネズミに人間の言葉で「出頭しろ」と叫んでもねぇ。
しかもそれを三度もやって人間の弁護士をつけて……最後には何の効力もない“破門”とは。
そう、破門とはキリスト教から破門すると神に代わって宣言するだけのことで
その毛虫やネズミを駆除することでも駆逐することでもなんでもないのです。
そもそもそう簡単に駆除・駆逐できないから裁判になっているとも言えるわけですが。
この本の前半はこのような動物裁判の実態を幾つかの実例とともに紹介しています。
まぁ、それは事実というか史実を記載しているだけなので内容自体は難解ではありませんが
後半にはどうしてそんなキテレツな動物裁判が大真面目に行われていたのかについて
当時の人々の意識・伝統・文化・宗教観などから解き明かそうという試みになっていて
思想的・宗教的なものをものに考察していくことになり、途端に難解な文章になっていきます。
そもそも上述の引用部分のようにどうも著者の漢字/ひらがなの使い方が独特で
読みづらいったらありゃしないです。
漢字を使えばよいような訓読み漢字をことごとくさけてひらがなばかりでつづっていくので
そのひらがなを一字一字きちんと読まないと意味が分からないことが多いのです。
この著者って日本人?って思っちゃったほどです。
まぁ、動物裁判の背景としては以下のようなことであると述べているようです。(以下引用)
すでにわたしたちは、およそ一一・一二世紀以降、人間がシステマティックの自然の制
服をすすめ、しかも人の手と自然のあいだに機械を介在させて、それをより効果的にしよ
うとつとめてきたことをみてきた。そしてその過程は、キリスト教が異教的な自然宗教に
とってかわる過程や、自然にたいする感受性が変容する過程と並行するものであること、
さらにそれらすべてが、「動物裁判」をちかく、とおく、包囲し、いわば「演出」している
ことが示された。 (引用終わり)
なんだか、分かったようなチンプンカンプンのようなそんな内容です。さらに、(以下引用)
もう一点注目すべきは、第一次的な自然のメタファーであった森のイメージの、空間と
しての神秘性が剥奪されてゆくのが、まさに、第二の自然のメタファーである庭がそのな
かにはさみこまれた時点であった、ということである。あたかも、闇にともされた人工景
観のランプが、幽冥な自然景観の深奥の秘密を白日のもとにさらけだして、合理的・人間
中心的な説明を与えるようになる、といった趣である。 (引用終わり)
と言われてもほとんど理解不能に陥ってしまいます。ボクの理解力不足なんでしょうが。。。
まぁ、日本人の縄文時代からの自然を畏れ敬い自然と共存していくという発想はなく
自然をも機械的にとらえていきながらも
キリスト教の神のもとには平等といいながら人間は特別であるという宗教観の間で
動物をも人間理性のコントロール下で管理すべきとの意識が働いていたということなんですかね。
おそらくそんなようなことを著者は言いたいのかなぁと勝手に理解しましたorz
それよりすんなり理解できたのは著者が引用したE.コーエンというイスラエルの学者の話です。
(以下引用) 動物裁判とは、民衆文化とエリート文化
の狭間に生まれた現象であるという。民衆は、古来の寓話的伝統の影響をうけ、中世後期・
近世をつうじて、動物にも理性・意思や人間的性格をさずける見方にそまっていた。
(中略) エリートにとっては、動物裁判において動物が法廷にたち、人間同様の適
正な訴訟手続をふんで裁かれるのは、動物の擬人化などではさらさらなく、動物たちもま
た、かれらを人間に従属させた永遠法に服すべきゆえに、人間同様の裁判にかけられるに
すぎないのであった。 (引用終わり)
そして、この話から想起されるのは、先日読んだ「日本人とユダヤ人」という山本七平著の本での
「奴隷とは人身ではなく家畜であって、家畜の中に牛・馬・羊がいるようにヒトがいるだけ」
なのであるなら、これがユダヤだけでなくキリスト教のヨーロッパ各地でも同様であるなら
動物裁判はなんらキテレツでも摩訶不思議でもなく、あぁそういうことかと腑に落ちます。
仮に悪事を働いた奴隷がいた場合
エリート層である奴隷所有者に責任を課すのではなく奴隷自身を罰するためには
奴隷を被告として裁判をして判決を下さなければなりませんし、
その際にその奴隷がたとえ難しい法律・理屈・言語を理解できなくとも刑は執行されます。
奴隷と家畜が同じと認識されてたのであったなら当然ながら動物裁判になります。
そして、そうであるならばエリート層の行動もすべて正当化されるわけです。
結局、そういうことだったんですかね。
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