新書「日本人なら知っておきたい 神道」を読了
著者の文章はとても分かりやすいのですが
難点は一般論や定説となっているものなのか著者の独自意見なのか判然としないところですかね。
なんとなく一般論で書かれているようですがその根拠は何も明示されないので
分かりやすい表現故にすべて鵜呑みにしてしまいそうなところが注意が必要かなと思います。
短い「あとがき」に書かれていることが著者のまとめであり主張だと思われます。(以下引用)
これまで述べてきたように、神道は日本の古代人の生き方をそのまま受け継ぐかたちで、
つくり上げられ、伝えられてきた。そこには、文化人類学者が「精霊崇拝」と説明する、
あらゆるものに神をみる太古の信仰が残されている。(中略)これまで多くの人たちが「神
をまつり、自然を大切にして、人間どうしが信頼しあって助けあう世界がのぞましい」と
考えたことによるものではあるまいか。 (中略)
神道では、人びとが笑顔で楽しくすごすことが最大の美徳で、男女の自由な愛が将来の
人類の繁栄をもたらすとされる。 (中略)
誰もが神道の発想にたって生きることができれば、世の中はきっと明るくなる。神道を
つくった古代人たちは、よけいな科学文明に毒されていない、生きかたの天才であったの
かもしれない。本書をまとめ終えたいま、あらためて神道の広範性と柔軟性に驚き、この
信仰が次代の日本にもたらす可能性に期待している。 (引用終わり)
なかなかの神道賛美とも言える記述になっています。
まぁボクも敬謙な神道信者ではないですが
それでも日本に生まれ日本人として神道的思想で育ってきているので分からなくはないです。
他の宗教(神)を排する一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教とは違い、
また「天神地祇」により天(=皇帝)の人民支配を正当化する儒教とも違い、
さらにはお釈迦・仏に他力本願で救われるとした日本流の大乗仏教とも違い、
もともとの神道の持っている思想というか精神性は共感しうるものです。
もっとも「男女の自由な愛(による子孫繁栄)」はボクは遺憾ながら貢献できてませんが(汗)
ただ、ちょっと気になるのはここでいう神道がどの時代のものを念頭に置かれているかです。
明治維新から戦中までの国家神道ではないことは明らかですし、
仏教や儒教の影響を受けたあとの神道も違うのかなというところです。
となると、記紀に書かれている世界もすでに天照大神を頂点として天皇権力の正当性を主張して
(というか、天皇権力を利用した藤原一族の正当性を主張するため)
儒教的思想を取り入れてしまっているものなので違うということになりますかね。
さらには、狩猟採集時代の縄文の思想と農耕社会の弥生の思想とは繋がっているとはいえ
それなりに大きな差異があったのだろうけど
もともとの神道の思想とひと口に言った場合はどちらを指しているのかは曖昧です。
おそらくどちらか一方ということではなくそれら長い時間を通して脈々と受け継がれていった
コアな部分が“もともとの神道”ということなのかも知れませんが。
その縄文人の信仰としてちょっと興味深かったのは以下の記載です。 (以下引用)
かれらは「円の発想」という、すべてのものを平等に扱う考えをもとに生きていた。縄
文人は円形を好んだ。円形がかたよりのない世界をあらわすと考えたからであろう。この
発想から縄文人は円形の広場を中心に生活した。 (引用終わり)
弥生時代の銅鐸についても面白いことが書かれています。 (以下引用)
太陽の光を反射する銅鏡は、太陽神の分身として祭壇にまつられた。銅鐸は水源地に埋
められた。銅鐸の表面に水をあらわす波模様や渦巻模様が描かれることも多い。銅剣や銅
矛は悪い霊を追い払う力をもつものとされた。 (引用終わり)
銅鏡は定説としてよく言われることですが、銅鐸の用途や目的は不明と言われることが多いです。
このあたりはどの程度の確度のある説なのかもう少し詳しく知りたいところですね。
言葉の語源として面白いというかへぇーと思ったのは、 (以下それぞれ引用)
「産霊」とは、今日の「縁結び」の概念につらなる。新たに生命を生むことをさす言葉である。
「穢れ」とは、「気(霊)枯れ(生命力が枯れた状態)」をさすものである。
「とおりいる」がつまって「とりい」になった。 (引用終わり)
特に鳥居の語源が「通りいる」からだとは目から鱗という感じでしたけど、これも定説?
なお、最も衝撃的でボクもこの歳になるまで大きな勘違いをしていたのは、 (以下引用)
神社の参拝では、さまざまなかたちをとって、幾度も祓いが行なわれる。これは、参拝
が、神に自分の都合のよい頼み事をするものではなく、自分の汚れた考えを清め、今後、
清らかな心で人びとのために生きようとする決意を強めるための行事であることをしめす
ものである。 (引用終わり)
そうか、本来の神道は神頼みする宗教ではなかったんですね。
単に、他力本願の大乗仏教が日本に広がってその発想が神道に取り込まれた結果
いつのまにか神社で神頼みするって風習になってしまったというわけですか。
まぁボクも神頼みすれば願いは叶うなんて本気で思っていたわけではないですけど
それでもなんとなく安全とか健康とかお願いするもんだと思ってしまっていましたよ。
もうこれからは神頼みはしないことにします(笑)
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