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新書「縄文文明と中国文明」関裕二著を読了

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PHP新書の「縄文文明と中国文明」関裕二著を読みました。
昨年に紹介したこちらの本が日本と半島との比較・関係を歴史的に捉えようとしたのに対し
この本では日本と大陸との比較・関係を歴史的に捉えようとしています。
もちろん、著者は同じ関裕二氏ですし、出版社も同じですから
ある意味では続編みたいな位置づけになっているとも言えます。

ただし、関氏というと日本の古代史、中でも飛鳥~平安時代の話題
とりわけ藤原家台頭と豪族没落や伊勢神宮からみの話が真骨頂という感じですが、
この本では日本の有史以前の縄文文明(縄文時代)に焦点を当てているのが
かなり目新しいと感じるところではないかと思います。

本書では、日本人のルーツやら縄文文明の成り立ちやその特徴やらから
その頃の大陸の状況やらその文明の特徴などについて説明し、
さらに“文明”とは何か“幸福”とは何かなど議論が展開されていますが、
ぶっちゃけて関氏がいいたいことは大陸の文明批判と縄文文明への賛辞みたいです(笑)

 

チャイナ(中華人民共和国)の党が聞いたら激怒しそうなことが書かれてますが
ちょっと幾つか抜粋してみましょう。
※個人的には“中国”の表記はしたくないですが引用部分はそのまま表記します。
                                 (以下引用)
 中國文明は「箍がはずれた文明」であり、かたや縄文文明は「思いとどまった文明」
というべきか、「野放図に開放してしまった中国文明」に対し、「進歩を恐れつつも、
前進した縄文文明」だと思う。革新的な中国文明に対し、保守的な縄文文明である。

 中国の男性のY染色体は、単純だ。ほとんどがO3系統で、彼らがいわゆる漢民族なの
だ。その一方で、女性のミトコンドリアDNAは多様性を持っているわけだから、漢民族
の男性(O3)は他の地域を攻撃し征服すると、敗れた先住の男性を追い払い、あるいは
殲滅して女性を奪い、子孫を増やしていったということになる。

 樹木を失った大地では、ひとたび強大な勢力が出現すれば、起伏の少ない広大な土地を、
大軍団が蹂躙し、ぺんぺん草も生えない状況が生まれ、敗れた側の男性が皆殺しになって
しまうような悲劇が続いたのだろう。

 漢民族に、「共存」という発想はない。殺さなければ殺される恐怖だけが、残されたの
である。                              (引用終わり)

「樹木を失った……」というのは、大陸にも昔は豊かな木々の森林があったのにほとんどすべて
燃料として燃やし尽くして砂漠化させてしまったことを指しています。半島も同じですね。
一方、日本ではスサノヲが様々な木を生み森を守った。
記紀の伝承ではあるが縄文文明の記憶が残されているということでしょう。

 

そして、一神教の話やらフランス革命の話も出てきますが最後には次のように締めくくっています。
                                      (以下引用)
 もがくしかないのだ。そして日本人には、いや、「日本語人」には、その責務が与えら
れているように思えてならない。中国文明が暴走することを、くい止めたい。そして、世
界中の人びとが、穏やかに暮らせることを、ただただ祈るのみである。  (引用終わり)

「日本語人」という表現を使っているのは、日本人の人種とかDNAレベルによらず、
日本語を話すようになると左脳が発達して情緒性・自然性・非論理性の特徴が現れるのでは?
ということからの日本語を喋る人という意味であり、
その日本語は縄文文明の頃からすでに原型があったということを指しています。

なかなか面白い話ですね。
とするとあまりカタカナ言葉を使わない方が、さらには音読み言葉を使わない方が良いのかもね。
逆に新型コロナ騒動でやたらとカタカナ言葉が連発されたのは(ボクも使いましたが)
そのような隠れた意味があったのかも知れないですねぇ。

 

なお、本書では縄文から弥生への移行のしかたやヤマト建国についての考察もされていて
そこについてもなかなか興味深いことがたくさん書かれています。
いくつか紹介してみましょう。                    (以下引用)

 また、この時期の文化圏は、ひとつにまとまっていた。日本海側から信濃川をさかのぼっ
て、佐久(長野県佐久市)のあたりから碓氷峠を下り、旧利根川が東京湾に削属ラインを「旧
石器古道」と呼び、旧石器時代の局部磨製石器の多くが、この周辺でみつかっている。

 ではなぜ、島の海人が馬に乗ったかというと、海人は航海を終えて上陸すると、馬に船
を曳かせて川をさかのぼるからだ。                  (引用終わり)

縄文人は海人で漁師であり交易商人であり
北海道から琉球まで、さらに半島南部にまで行き来して、川を遡って交易していたというわけです。
それに、群馬県で馬の繁殖が早くから行われるようになった理由も納得ですかね。

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