「職業に貴賤はない」と言いますが、自分の中にはある
図らずも前置きが長くなってそれだけで一つの記事にしてしまったこの前の記事の続きです(汗)
その記事で、「職業に貴賤はない」という元来の意味と
それにともないそもそも公利性のない職業については除外されていることを書きました。
しかし、公利性の有無は明確に線引きすることは難しいですし
公利性がないからといって違法行為でなければ完全に否定できるものでもないので
程度問題でもあるだろうという意見を書きました。
さて、今回はそんな新型コロナ騒動に関連したことについてではなく
また、世の中や他人のことについて不思議だとつぶやくことでもありません。
きわめて個人的に自分の頭の中には貴賤はあるということを書きたいと思います。
“貴賤”というより個人的な好き嫌いがあるという程度のことでしょうけど。
こちらの「仕事なんか生きがいにするな」の本に書かれていたように
そもそも生活のために必要に迫られてやる仕事は賤しいものとされていたわけですから
多くの人の仕事は賤しいものと言えます。
実際、ボクも学生時代のバイトも社会人となってサラリーマンとしての仕事も
娯楽(カッコよく言えば文化的生活)も含めて生活費を稼ぐためというのが第一目的ですからね。
確かに、世のため他人のために収入度外視で働いてくれるような人もいるでしょうし
そこまでではなくても医療従事者、警察、消防などをはじめ貴い人もいるでしょう。
でも、そういう職業の人すべてが貴いかどうかはこれまた断言できませんしね。
けれども、仕事をする目的は単に生活費だけのためというわけではないでしょう。
そりゃぁ100%生活費のためだけに厭々しかたなく働かざるを得ないという人もいるでしょうが
一方でいろんな意味で仕事が楽しいとか少しはやりがいを感じるという人もいるのではないでしょうか。
さきほどの「仕事なんか生きがいにするな」でも提案されているように
日常に“遊び”を取り戻すことができれば楽しい部分も出てくるのだと思います。
また、こちらの「働く。なぜ?」の本に書かれていたように
いつもの仕事を自分目線でやっているだけでなく
いつもの仕事であっても他人の目線で社会とのつながりとして客観視したり
いつもと違う仕事を見つけ出してそこでの社会とのつながりを意識することで
働く目的が単に生活費のためだけではなくなってくるという考え方もできます。
つまりそれは、こちらの「『やりがいのある仕事』という幻想」の本にも書いてあったように
仕事の“やりがい”は初めからどこかにあるわけではなく自分で見つけ出して手繰り寄せていくものです。
決して、社内で皆でわいわい楽しく友だち感覚や家族みたいに過ごすことや
何かにつけて宴会やパーティー開いて大騒ぎすることが“やりがい”ではないと。
まぁそういうのが仕事にいく目的という人がいてもそれはそれでいいですけどね。
ボクはもう早期リタイアして職業には就いていませんし将来就くつもりもありませんが
ひるがえって現役サラリーマン時代をかえりみるに、
100%生活費のためだけに働いていたというわけではなかったつもりです。
確かに、若い頃は働くことが普通というか何のために働くかなんて深く考えもしませんでしたが
それでもこれらの一連のブログ記事からも窺い知れるようにそれなりに“やりがい”を感じてました。
もちろん、反抗も挫折も同時に感じてましたけどね。
その後の退職するまではそれなりに紆余曲折ありながらも“やりがい”はあったと思います。
それには、自分がなりたいエンジニアになれたこと、そのために必要な学校教育を受けられたこと、
そして自分が抱いた会社に就職できて、ある程度やってみたい職場でやりたいように仕事ができたこと、
それはかなりラッキーであっただけなのかもしれませんが
それでも僅かなりともそこに自分で“やりがい”を見つけ手繰り寄せようともがいてきたことも事実です。
つまり、職業に貴賤はないといっても、やはりボクの頭の中には職業や仕事に貴賤というか
好き嫌いとかやりたい/やりたくないというものは厳然と区分けがありますし、
現役時代にはもちろんやりたいことばかりではなくやりたくないこともやらざるを得ませんでしたが
それでもそれなりにやりたいことをやれたという満足感・達成感があるということです。
まぁ、他人から見ればたかだか自動車開発のエンジニアなんて貴い職業とは思わないでしょうが
自分とっては好きでやりたいことでしたし、
少しは世の中の他人にも喜んでもらえただろうということで
(逆に反感買ったり期せずして不幸を招いたり社会的負荷をかけたりした部分もあるでしょうが)
ボク自身としてはそこそこ自己満足もしています。
けれども、役職定年や関連会社出向やその出向先が嫌だったことやモチベーション低下や
自動車の未来への興味が薄らいだことなどで複合的に
仕事の“やりがい”を失う(と予期された)ことになり、
また一方でリタイア後の資金計画を計算すると贅沢を望まなければ
生活費を得るためにこれ以上の労働は必要なさそうというのも見えてきたこともあり
生活費のためだけに労働するという賤しいことからも解放されることが分かったので
2年半前のこの日をもって退職したということになります。
つまり、僅かばかりの“貴”い職業の部分を捨てると同時に“賤”しい職業の部分も捨てたのです。
ですから、ボクはもう賤しい職業につくつもりは一切ありません。
なんらかの状況変化で生活費を得るために賤しい職業に就かざるを得なくなるかもしれませんけど。
さらに言うと、ボクにとっては生活費を得るためだけの職業よりもっと賤しいと感じる職業もあります。
それは生活費は十分足りているのにさらに欲と見栄のために金儲けをすることです。
守銭奴といわれる人ですね。そういう人であって職業でも仕事でもないですが。
そして、投資をしないなんてもったいないとかバカじゃないのという人も中にはいますが
ボクにとっては投資で生活費を得ることは賤しいと感じる行為だということになりますし
ましてや生活費が足りているのに欲をだして投資することはもっと賤しいと感じる行為です。
また、投資はギャンブルや宝くじとは違って立派な社会貢献だと主張する人もいますが
そもそも「投資」とは利益を得るために資本を投じる行為であって慈善事業で寄付するわけでなく
回り回って社会貢献につながるのは理解できてもあくまでも利益を得ることが目的なのですから
生活費が足りているボクにとっては賤しい行為ということになります。
その意味においてボクにとっては投資をするという行為は最も賤しい行為ということになるわけです。
もちろん、それはあくまでもボクにとってというだけの話であって
他人が投資をしてもあるいは風俗で働いてもどうでもいいことですので、あしからず。。。
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