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文庫「徳大寺有恒ベストエッセイ」を読了

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草思社文庫の「徳大寺有恒ベストエッセイ」を読み終えました。
2018年発刊の本で少し前に買ったのだと思いますが
元は2015年刊行の本を文庫化したものだそうです。
それでも、徳大寺有恒氏(本名:杉江博愛)は2014年に亡くなっていますから
この本そのものを徳大寺氏が執筆したというのではなく
徳大寺氏が過去に著した「間違いだらけのクルマ選び」など様々な著作物の中から
幾つものものを選択してベストエッセイという形で再掲載した本ということになります。

ボクは徳大寺氏のシンパでもなんでもないですが
(徳大寺氏に限らず特定の誰かのシンパになることはほぼありませんが)
それでも「間違いだらけの……」シリーズやNAVI,CGなどの雑誌への寄稿文などをはじめ
徳大寺氏の評論・エッセイなど文章に触れる機会は多かったですから
この本の内容もいつかどこかで読んだようなそんな既視感(既読感?)のあるものが多く
総ページ数370頁を超えるほどの分厚い文庫本でしたが
一気に読み終えてしまった感じです。

似たような草思社発行の徳大寺氏の本だと、「間違いだらけの……」は別にして
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こんなのとか過去に読んでますね。他に20冊近くあるんじゃないかな。
左は草思社文庫「徳大寺有恒 ぼくの日本自動車史」でこれなんか450頁近くもあります。
右は文庫ではないけどハードカバーでもない「日本のクルマ社会を斬る!」と題された
歴代の「間違いだらけの……」の中からベスト評論を集めたものですね。

 

これだけ徳大寺氏の本は読んでいて未だに本棚に並んではいますが
前述のように、そして繰り返しになりますがボクは断じて徳大寺氏のシンパではありません。
徳大寺氏とは趣味性の方向性(特に服装)が異なりますし、彼の評論には矛盾が多いと感じますし、
技術的に間違っていることを平気で正論のごとく書くので信用がありません。
もっとも、趣味性が違うのは別の人間であれば当然のことですし、
時代や背景が違えば矛盾が生じるのも当然のことですし、
技術者でなければ技術的に間違っているのも致し方ないこととは理解していますが。

ただ、この本では、その時代や背景という部分をさておいた形で
様々な時期に書かれた、様々なメディアに書かれた文章を
ごちゃまぜにしてポンポンと載せているので余計に矛盾を感じる形になってしまってますね。
凄く小さな字でどんなメディアに何時書かれたかは記されてはいますけど、老眼では見えません(汗)

 

そんなわけで矛盾や間違いをいちいち指摘するつもりはありません。
むしろ、ほー、そういう考え方があるのねと気づかされることも多いので面白いわけです。
そんな中でちょいと面白いなという部分を紹介しておきましょう。 (以下引用)

 最近、私は“スタイル”という言葉をよく使う。こいつはクルマのボディデザイン
のことではない。〇〇流、〇〇ウェイといった意味でのスタイルである。
 この言葉に気がついたのは最近だが、私は二〇代からずっとこのことにこだわって
生きてきたように思う。徳大寺流の考え方、徳大寺流の生き方、徳大寺流のクルマ選
び。すべてがスタイルなのだ。そして、この短い人生、とりわけ後世に名を残すとか、
世のため人のために何かをやるといっただいそれた思いはなく、このささやかな徳大
寺流の確立のために生きていくのだなアと思いつつある。   (中略)
 しかし、問題はこのスタイルをいったい誰にわかってもらうかなのだ。こいつをし
っかり考えておかないと、このスタイルは確立しない。まったく大勢のいわゆる大衆
にわからせるなどと考えたことはない。ごくごく狭い範囲の私をわかってくれる知人、
友人にわかってもらえばよいと考える。            (引用終わり)

ボクは徳大寺氏とは趣味性がまったく異なると書きましたが
これは言い換えれば徳大寺氏のスタイルとはまったく違うということですが、
自分のスタイルを持つこと(持とうと模索すること)とそれを誰にわかってもらいたいか、
この部分においてはボクは徳大寺氏の考えに大いに賛同したいです。

もっとも、知人・友人に分かってもらえばよいといいつつ本に書いている徳大寺氏は矛盾してますし、
それに賛同したいとブログに書いているボクも規模は大きく違えど矛盾しているわけですが……
それでもやはりJETスタイルは意識して生きていきたいと思いますね(笑)

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コメント

徳大寺さん、アルシオーネを揶揄したコメントを見て信頼できないなと思いました
「NAVI」誌/1985年12月号/「特集TALK85年国産車イッキ斬り」に以下の評論があります
………………………………………
徳大寺有恒:
 で、アルシオーネなんだけど、あれは空力がひとつの売りで、まあまあ180~190km/hは出るんだけど、180~190でそんなに空力を詰めるなよって言いたくなるね。
 これが250km/hカーなら、空力をうんと詰める意義が出てくるんだけど。
 その辺のコンセプトがどうかな。
舘内端:
 空力でクルマを買う人はいないと思うんだな。
………………………………………
今の時代、空力は抜きに語れないと思いますが、そんなメーカーは阿呆だと評論されてますね
自動車評論家の先見性なんて、そんな程度なんだなと

まぁ、それこそが「時代や背景が違う矛盾」なのかもしれませんが、先見性がないというのは事実でしょう

投稿: 五条銀吾 | 2020-03-23 14:13

>五条銀吾さん

あはは、こんなこと書いていたんですね。
まぁ、一時期流行ったCd値争いみたいなものは無意味ですけどね。
ただそれを言うなら最高速の数値争いしても意味ないし
そもそも国産車として乗るなら250km/h出ても全く意味ないし(笑)

徳大寺氏は先見性はほぼないですね。
どちらかというと過去に生きていたんじゃないですかね。
それでも、エスハチ(ホンダ)とヨタハチ(トヨタ)の比較で
空力も重要なのを知っていたはずなんですけどね。

投稿: JET | 2020-03-23 15:14

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