新書「『すみません』の国」を読了
たしかに日本人はよく「すみません」という言葉を気軽に口にします。
「すいません」や「すんまへん」なども含めれば著者がいうように
毎日そこらじゅうから聞こえてくる言葉と言えそうです。
ボクもまぁそんなに深く考えることなく「すみません」と口にしますが
それでももう早期リタイアしてしまった今となっては
誰かに「すみません」という機会も誰かから「すみません」と言われる機会も激減しましたが……
というよりそもそも誰かと会話する機会も滅多にありませんけどね(汗)
で、その「済み・ません」の言葉にはほとんど謝罪の気持ちは含まれていないとして
そこに日本人特有のホンネとタテマエの二重構造があり
それはまたいやらしさと奥ゆかしさの構造であると展開していきます。
ですから、著者は「すみません」を気軽に連発する日本人のいやらしさとともに
その奥ゆかしさを美しく良しとしている立場でこの本は書かれています。
ただ、企業や政治の世界でもこのホンネとタテマエの二重構造があるので
「空気」が支配しだれも責任を取らないということが起こりやすいわけですし、
個人的にはこのようなホンネとタテマエの二重構造はあまり好きではありませんね。
それでも、30年以上もそのようなホンネとタテマエの二重構造が支配している企業で
サラリーマンとして働いてきたわけですから、ボクだってそれなりに
ホンネとタテマエの二重構造の中で「すみません」を使ってきたわけですけどね(汗)
それでもやっぱりついズケズケとホンネを喋ってしまう方でしたので
おそらく周りからは空気の読めない奴とか気の利かない奴とか思われていたんでしょう。
まぁそう思われることも仕方ないと考えていたし
むしろ状況によってはワザとそう思われるようにズバッと言うこともありましたけどね。
こういうことが書いてあります。 (以下引用)
ここから察するに、私たち日本人は、意見と発話者を分離して考えるのが苦手なのではな
いか。意見の否定は、発話者の否定につながる。そう思えば、うかつに反対意見を述べるこ
とはできなくなる。反対意見を述べることで、相手との関係が悪くなることが十分あり得る
社会なのである。ゆえに、よほどの覚悟を決めないかぎり、反対意見は出せない。
(引用終わり)
うーん、やっぱりボクには馴染めない考え方ですね。
それに会議で反対意見も出せないようでは企業活動はまともにならないですよね。
これでは無駄な会議がだらだら続くのに有意義な結論が出ないわけです。
そして、面白いことも書いてありました。 (以下引用)
『日本人とユダヤ人』において、イザヤ・ベンダサンは、ユダヤでは全員一致の決議は無効
になるが、日本では全員一致が望ましい決議と見なされると対比している。(中略)
蛇足ながら、このイザヤ・ベンダサンというのは、画期的な日本人論・日本社会論を展開
した山本七平が、ユダヤ人を装って用いたペンネームである。 (引用終わり)
山本七平氏はこの「『空気』の研究」を著した人ですね。
「日本人とユダヤ人」も読んでみたくなりました。
また、「怪我人よりも上司に席を譲る心性」という章でこうも書いてます。(以下引用)
これは、内輪とヨソ者を区別しているのだ。内輪の相手は尊重するが、ヨソ者は尊重しない。
(引用終わり)
いや~、いやらしいですよね。まっ些細なことならつい内輪を優先することはありますが
それがあまりにも露骨だとやはり嫌悪感を感じてしまいますね。例え内輪側だとしても。
しかし、著者によると欧米はホンネとタテマエの二重構造ではないけれど
かといってホンネだけなのではなく実はタテマエだけなのだと言います。
「こうあるべき」というのがタテマエなので彼らはホンネではなくタテマエだけなのだと。
言われてみると確かにそうかもしれないです。
ボクだって言いたいことをズケズケ言いますけど本能に赴くままにになんでも言うわけじゃないし
ましてや働いていた時は私利私欲でホンネの意見をいうのではなく
「こうあるべき」という自分が正しいと考えていることを原理原則に従って
あるいは数学的に科学的に論理的に言おうとするわけですからね。
白洲次郎のいうところの「プリンシプル」というやつですな。
だからあるいみ正論を言う嫌なヤツとして日本社会では疎まれる存在なんでしょうね(汗)
まっでももう早期リタイアしてそういうシビアな議論の場につくこともないですから
知らない他人相手にどうでもいいタテマエの話か気の合った仲間とのホンネの話かの
どちらかだけで二重構造に悩まされることもないでしょう(笑)
| 固定リンク
コメント