新書「脳の意識 機械の意識」を読了
それは人の脳の意識といっても脳細胞ニューロンの発火という科学現象に過ぎない
という脳神経科学者としての筆者の立場からくるものです。
その意味では人の意識を神や霊の存在に求めるこの本とは対極にあるものと言えますし
古今東西の哲学書ともまた異なる立場で書かれている本です。
ただ、それでもいきなり「我思う、ゆえに我あり」のデカルトの名言が出てきて
それを否定しているわけでもないので哲学的思想を否定しているわけではないのですが、
あくまでも筆者は科学的に意識というものを解明し実証しようとする立場なわけです。
意識という主観のものを科学という客観で解明しようというわけですから
そこに困難さの本質があるわけですし、その困難さゆえに
意識を神に託してしまったり主観だけで完結しうる哲学に閉じ込めてしまったりするのでしょう。
人の脳の意識というと何やらやたらと複雑で思慮深い意思決定やらを想定してしまうのですが
ここでは極限まで還元したもの(ここでは簡単化したものという意味か)として
私たちが「何か感じる」という意識=クオリア、
特に「何か見える」という視覚のクオリアを中心にした研究について説明されていきます。
人は目で見ているようで実は網膜からの視神経回路も含めて脳で見えるように感じているだけで
だからこそ様々な錯覚・錯視を生じるわけですが、
それを利用して視覚クオリアは何かに迫っていきます。
そこには人だけでなくサルやマウスなどの実験も多く含まれています。
それらの研究によって、例えば、意識の「今」が現実から少なくとも0.2秒遅れているとか、
自分の意識・意思=自由意思は単に脳が我々に壮大な錯覚を見せているからだとか、
考えれば考えるほどわかけが分からなくなるような話もでてきます。
最終的には筆者は神経アルゴリズム、とりわけ生成モデルが「意識の自然則」の客観側の対象であるとの
考えにいたった。と書いていますが、これだけだと何のことかこれまたさっぱりとなるでしょう。
詳しく知りたいと思った方は本書を手にとってみてください(笑)
本書はぼーと読み進めるとなんだかチンプンカンプンになってしまいそうなくらい
ボクにとってはそこそこ難しい内容の本でしたけど、
最後のところはなんとなく腑に落ちたような気がしましたね。
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