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操安乗業務に異動後もフラフラしていました

以前の記事で操安乗業務へ突如異動した理由をボクなりに考えてみたのですが、
今日はその後の昔話をしてみようと思います。

フラフラしていたといっても何も仕事をさぼって
フラフラと遊びほうけていたということではないんですが、
ひとつの車種やプロジェクトを中心に腰を落ち着けて取り組むという
そういう状態にはなかなかならず、
「ボクの仕事はコレコレです」とか「コレをやりました」と
はっきり言えるものはほとんどなかったのです。

まぁ、ある意味丁稚奉公(でっちぼうこう)みたいなもので
何でもお手伝いさせられていた、ということですかね。
ただやっぱり達成感とかそういうものは得られなかったのは確かです。
まぁ仕事に達成感を求めると不幸になると当時から考えていたので
それほど嫌とは思っていませんでしたけど。

今日の記事ではそんな昔のフラフラしていた時代を振り返ってみたいと思います。

前回の記事にも書いたように、
操安乗業務に異動になった表向きの理由は
当時開発中であったアルシオーネSVXの
電動4WS(四輪操舵)の開発ということでしたし、
実際にアルシオーネSVXの開発グループに入って
電動4WSはもちろんそれ以外の操安乗開発に携わりました。

しかし、実際にその電動4WSは特に開発が難航していたということでもなく
基本的な性能はある程度完成されていて、
ボクみたいな青二才がどうこうするほどのことでもなかったのです。

それより、当時(1990年)はスバル(富士重工)は経営的に大ピンチで
日産ディーゼルより河合 勇 氏を社長に迎えて再建にとりかかった時でした。
経営的に落ち込んだ理由は、アメリカ工場建設などの投資が嵩んだこともありますが
レガシィなどの開発予算のつけとレガシィが無駄に高コスト製造となっていて
その割に主流となるアメリカ市場での販売が芳しくなかったことなどです。

そのために、河合社長からはアルシオーネSVXの開発の一時凍結や
レガシィのVA(といってもコストダウン)により注力すべきという方針が出され、
※VA:バリュー・アナリシス(価値分析)ですが
 機能・性能を落とさずコストダウンすることをこう呼んでました。
 まぁ大抵は性能も落ちるんですがお客さんにとって必要な性能は落とさない
 というのが前提としてあるんですけどね。

おそらくそんな背景からボクはアルシオーネSVX開発グループから
レガシィ開発グループへと移ることになりました。

正確には覚えていませんが、アルシオーネSVXに携わったのは
僅か半年足らずということだったと思います。

 

次のレガシィ開発グループでは当時発売中の初代レガシィの年次改良、
これは前述の通りVAがメインとなってましたが、
同時に次期(2代目)レガシィの開発も始まってましたから
それに関連する業務にも携わりました。
グループリーダーという立場でもないのでその車種(の操安乗)を
任されているわけでもなくあくまでも一部を携わっていただけですが。
それでも可変減衰力サスペンション(世に出てませんが)なども
手がけさせてもらったりして
それなりに勉強になったかなと思っています。

特にその時の直属の上司(グループリーダー)が超切れ者だったので、
もちろんキレると怖いという意味でなく頭がよく論理思考に優れた人でして
直接あれこれと指導していただきボクも成長できたと思っています。

なお、脱線しますが、当時の富士重工の実験部での教育は
ある意味大昔の職人みたいにほぼOJT(現任訓練)に依存していたので
優秀な上司につけるかどうかで大きな差がでるのはしかたない状態でしたね。

しかし、そんなレガシィ開発グループでの仕事も長くは続きませんでした。

 

また半年ほど経ってから、つまり操安乗業務に異動して1年ちょっとで、
また別の車種に携わることになってしまいました。
操安乗業務をしている同じ課の中での異動だったのですが
第1操安乗り心地担当(略称D1)から第2操安乗り心地担当(D2)への異動です。

D1は小型系と言われていてレガシィ、アルシオーネの操安乗開発を
D2は軽系と言われていてレックス(ヴィヴィオ)、サンバー、ジャスティなどの
操安乗開発をする担当(係に相当)となってました。
ジャスティやドミンゴは軽自動車ではなく小型自動車登録なのですが
レックスやサンバーをベースにしているからD2でやったのでしょう。
でも、レガシィをベースにしているインプレッサまでなぜか中間系と言われて
D2で開発していたんですよね。
まぁこの区分は操安乗だけでなく他の部署でもだいたい似たようなものでしたけど。

だから初代インプレッサの試験車をエビスサーキットで走らせたりもしてたわけです。

それで、D2担当に移ったボクがやることになった業務が
次期(幻の2代目)ジャスティ(開発コード77S)の操安乗開発です。
“幻”と書いちゃったので途中でボツになったことがバレてますが
当時提携していた日産マーチ(2代目・K11型)をベースに
富士重工で対米衝突基準対応と4WD化をして
スバル、日産ともに販売するというなかなか面白い企画の車でした。

77Sについてはグループリーダー的な立場で基本的に任されて業務することになり
また開発の初期の企画段階から携わることになったので
初期検討・机上検討からかなり自由に主体的にやらせてもらって
正直、仕事が面白かったという感覚がありましたね。

 

この記事にも書いたようにどういうわけか実験部門が目標性能を決めているので
77Sの操安乗の目標性能もボクが作成・提案していました。
その時の報告書を読み返してみますと、

 安全性・安心感と快感(楽しさ、快適さ)を重視する。
 快感とは人・車・環境の親密な関係(一体感)から生まれるものとする。

なんてことを書いてました(汗)ちょっと恥ずかしいですなぁ。
まぁ、どの車種でも似たような文言を目標性能に掲げて
そこから具体的な目標値に落とし込んでいるんでしょうけど、
今のスバルの「安心と愉しさ」とかに通じていますから悪くはないですよね(笑)

 

また、まだ試験車なども作る前の段階でしたが、
ベースとなるマーチ自体が発売前で日産で開発中であり
日産としては新型マーチの情報が漏れることを極端に嫌っていて
操安乗り心地についてもサスペンション仕様についても教えてくれませんでした。
日産のテストコース内での試験車の試乗なども断れましたしね。

まぁ、そのころは日産と資本関係にあった(日産からすればほぼ子会社感覚か?)
とは言え共同開発とか技術提携はあまりなく生産委託などが主でしたから
富士重工に協力するなんて気は日産にはさらさらなかったでしょうしね。

ただ、スタイリングが全く分からないようにフロアパンとトーボードなどを残して
ボンネットもドアもフェンダーもルーフも何もかも切り取って
エンジン、ミッション、駆動系、サス、ステアリングだけが付いているような
そんな車と呼べないようなモノだけが日産が送られてきてました。

ところが、ボクはそれにさえも乗ってみたくなって
(もちろん仕事上、技術上で必要と考えたからですが)
それっぽいシートとシートベルトを取り付けて
テストコースで乗ってみたんですよね。

記憶ではいちおう管理者に許可を取ったと思うのですが……
実験以外の部署の人がみかけてとんでもないモノが走ってるって
大騒ぎになって後でこっぴどく叱られてしまいました。
まぁ今となってはいい想い出ですし、
その時の写真でも撮っておけばよかったなとプチ後悔してますけどね。

 

さて、そんな77Sも諸々な事情(技術的ではなく政治的・経営的事情?)で
1年ほどで開発凍結・中止となってしまいました。

そんなこともあってこのころのボクは地に足が着いていないような
何やってるのか分からないような気持ちになっていました。
まぁだからといって、会社が嫌い、仕事が嫌いってほどでもなかったですし
このころはまだまだ早期リタイアしたいって考えもなかったですしね。

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コメント

初代ジャスティは、私としては好きな1台でした。レックスのドアをそのまま使っていましたが、乗ってしまえばそんなことは関係なくて、伊豆スカイラインを楽しくドライブしたことを今でも覚えています。77Sもかたちになったら、きっと楽しいクルマになったでしょうね。

投稿: よっさん | 2018-12-22 21:57

今回も興味深く拝読させていただきました。
ありがとうございます。
OJTなんて、どこの会社のどの部署でも似たようなものかと。
標準化・マニュアル化されていても、それで全てが教育出来る内容ではなかったですし。
上司次第・本人次第じゃないでしょうか。

投稿: はら坊 | 2018-12-23 06:30

>よっさん

ボクも初代ジャスティに乗ってましたので、
77Sも自分が乗ることも想像しながら開発に取り組んでいました。
もし77Sが世に出ていたら、77Sを買っていて、
そしたら今のラリっ娘(プジョー106ラリー)は無かったかもしれないです。

投稿: JET | 2018-12-23 06:41

>はら坊さん

確かにOJTはどの会社でも似たようなものかもしれないですね。
ただ、基礎というか一般教育と先進技術分野の教育は組織的にやらないと
いけないのかなと思いますし、その点では以前の会社は弱いなと思ってました。
昨今の不祥事(開発ではなく製造現場ですが)でもコンプライアンス関連の教育が
ちゃんと定期的に行われていればもっと早期に発覚していたはずです。
OJTに頼ってばかりいると昔からの悪い習慣もそのままにされてしまいますからね。

投稿: JET | 2018-12-23 06:45

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