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操安乗業務に突如異動になった理由は?

先日の記事では、排ガス・エバポ業務は1年も経たないうちに
操縦安定性・乗り心地業務への異動となってしまったことを書きました。
今日は、予告通りどうしてそんなすぐに異動になったのかを
当時の状況からボクなりの推察をしてみたいと思います。
といっても何か得体の知れない悪意に満ちた計略にはまったわけでもないので
サスペンス的な面白さがあるわけではないのですけどね。

その前に、一般の人向けに操縦安定性・乗り心地の
研究・開発・実験とは何ぞやということを簡単に書いておきましょう。

操縦性はハンドル操作をしたときドライバーの意思通りに車両が動くかどうか、
安定性は車両に外力が働いた時にそれまでの運動をどれだけ保てるかということです。
必ずしも相反する性能ではないですが両者のバランスをとることも重要で
両方をまとめて操縦安定性、略して操安性といいます。
乗り心地はまぁ説明不要でしょうけど、これも操安性とトレードオフになる部分も多いので
それらをひとまとめにしてひとつの部署が研究・開発・実験していくことになります。
また全部ひっくるめて操安乗り心地とか操安乗(そうあんじょう)とか呼んでましたね。

なお、現代送り仮名では乗り心地とひらがなの“り”を入れるのが正しいのですが
技術報告書などではボクは“乗心地”と表記することが多かったですね。
特に表の限られたスペースに記載するときは送り仮名を省略することが多かったです。
ただここでは慣れない人でも読みやすいようにちゃんと正しい送り仮名を使いますかね。

さて、その操安乗り心地への異動に際しては、いちおう上司から受けた説明では
当時開発中であったアルシオーネSVXの4WS(四輪操舵)の開発が佳境に入り
人手が必要なのでそれに携わってもらいたいということでした。

ただ、実際にはその4WSはほぼほぼ仕上がってきていましたし
アルシオーネSVXの操安乗り心地開発もさほど人手不足であったわけでもなく
事実アルシオーネSVXの操安乗り心地の開発に携わったのは僅か数ヵ月で
その後すぐに次期レガシィの操安乗り心地開発チームに移ったくらいでした。

なので異動は次のようないろいろな理由が重なってのことだと思っています。

1)いわゆる「走り屋」だと思われていた?
2)排ガス・エバポへの異動が不本意だと思われていた?
3)ヘンテコ部署時代から操安性の計測などもやっていた経験があった
4)メカトロニクスが得意だと思われていた?
5)課長が変わっていた
6)部の編成が変わって部長も変わっていた

ちょっと補足説明が必要ですかね。

 

1)いわゆる「走り屋」だと思われていた

というのは、入社当初からヘンテコ部署に配属されてラリー車弄ったり
シビア試験と称する派手な走行試験をさせられていたので
テストコースで車を走らせる仕事としての「走り屋」が向いていると
その時の先輩や同僚が認識していた部分があるかと思います。
ボク自身もそれほど嫌いではなかったですけど向いているとは思ってなかったですし
それが仕事であるという認識もなかったですけどね。

 

2)排ガス・エバポへの異動が不本意だと思われていた

これは以前の記事にも書いたように経緯としては当時の課長の権限だけで
異動となったのは事実なんでしょうけど結果的にボクにとっては歓迎だったので
特に不本意であるとは感じてなかったんですけどね。
それでも上記の「走り屋」という認識とともに排ガス・エバポの部署では
先輩などからはそのような目で見られていたのかなと思います。
なんせヘンテコ部署と同じ課で隣で一部始終を見ていた人達ですからね。

 

3)ヘンテコ部署時代から操安性の計測などもやっていた経験があった

これは事実そうで、ヘンテコ部署での高速開発ということでも
操安性の計測、具体的には定常円旋回試験や周波数応答試験などは
ひと通りやっていたので経験はありました。
ただ経験がものをいったのではなく、その際に操安乗り心地部署の人に
計測器を借りに行ったりアドバイス貰ったりと
そういう人的交流が多かったのがプラスに作用したのでしょうかね。

 

4)メカトロニクスが得意だと思われていた

その当時はエンジン、ミッションだけでなくサスペンションやステアリングなどにも
電子制御が使われだしていわゆるメカニズムとエレクトロニクスの融合として
これからはメカトロニクスが重要だなんて云われはじめていて、
社内でも「メカトロニクス教育」なんてのが開催されるようになってました。

排ガス・エバポ時代にその教育を受講させてもらったのですが
個人的に面白かったしそれなりに成績優秀だったと思います。
大学時代にマシン語使ってのプログラミングとかで遊んでたのが
活きただけなんですけどね。

なんとなくそんな情報がどこからか伝わったのかも知れません。

 

5)課長が変わっていた

これもこの前の記事で書きましたが、課長権限で排ガス・エバポに異動となった
その時の課長は既にSTI(スバルテクニカインターナショナル)へ出向・異動していました。
他の課への人事異動では出す側の課長と受け入れる側の課長との
両方の同意が必要です。まぁ部長権限でもあるんですけどね。
不思議なことに人事部の権限はほとんどないんですよね(笑)
なんにしても、課長が反対していたら他課への異動は実現しなかったでしょう。

新しい課長は元・操安性の実験経験者だったこともあって
ボクの異動を承諾したのだと思われます。



6)部の編成が変わって部長も変わっていた

入社当時のヘンテコ部署や排ガス・エバポ部署と操安乗り心地部署とは
最初は別々の部になっていたのですが、
その後に部の編成が変更になって
排ガス・エバポ部署と操安乗り心地部署とが同じ部になりました。
つまり、部内での異動ということになったので
一人の部長が承認すれば済むという話が簡単なことになっていたわけです。

 

というわけで、どれが本当の理由なのか
あるいはどれがどの程度影響していたかは分かりませんが
とにかく操安乗り心地の研究実験開発をすることになりました。

結局はスバルに在籍していた間においては
この操安乗り心地の研究実験開発にいた期間が
トータルでは一番長くなりました。

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コメント

なるほど。葛生のテストコースができる前後の話になりますか?

投稿: よっさん | 2018-11-13 21:17

>よっさん

そうですね。葛生のテストコース、、、あの頃はそう呼んでましたね。
SKC(スバル研究実験センター)の高速周回路が完成したのが1989年秋です。
ボクが操安乗に異動になったのは1990年の春先ですから、完成後ということになりますかね。

投稿: JET | 2018-11-14 03:55

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