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レガシィ10万km速度記録の記憶

以前に30年以上前に入社後に配属されたヘンテコ部署のことを記事にして
その“その3”の中で結局はSTI(スバルテクニカインターナショナル)へ
厄介払いみたいに作業応援という形で異動になったと書きました。

また、その前のSTI30周年の記事において
STI創設時はほとんどレガシィ10万km速度記録関連の
仕事しかしてなかったことと、さらにそこで
レガシィ10万km速度記録挑戦のことは別途記事にしますと宣言していたので、
今回はその時のトピックスなぞを書いてみようと思います。

10万km速度記録とはいちおうFIA(国際自動車連盟)公認の競技で、
燃料補給やタイヤ交換などのピットストップ時間も含めて
10万kmという距離をどれだけ速い平均速度で走れるかという
記録を競うものになります。

初代レガシィの発売の際に話題作りのために何かをしようということで
その10万km速度記録に挑戦することになったわけです。
どういう経緯でその記録に挑戦することになったのかは詳しくは知りませんが、
まぁ当時の状況を考えると言い出しっぺは親分と呼ばれてた人でしょうね。

それまでの記録はサーブ9000ターボの213.299km/hでした。
レガシィの記録は223.345km/hで10万kmを走り切り
見事世界記録に認定されました。
けど、その後2005年になってメルセデスベンツE320CDIが
225.903km/hの記録を出したので、
レガシィはもう世界一ではありませんが。

こんなことするのはもうスバルが最後だろうと言われてたんですが
その後にベンツがやったというのはちょっと意外でした。
現在のちょっとした高性能量販車ならば性能も信頼性も十分にあって
やる気になれば250km/hぐらいの記録は作れそうに思いますが、
それをやるには莫大な資金と人と時間がかかりますし、
その割にサーキットレースやラリーなどほどの熱狂・興奮を誘い
メーカーの宣伝にさほど繋がるわけでもないので
やるメーカーがほとんどいないというだけですけどね。

ベンツはアメリカ市場でのディーゼルの普及を睨んでの意図で挑戦したのでしょうけど
それにしてはレガシィの記録よりちょっとだけ(2.6km/hほど)速いだけなのが
意外な印象を持ちました。
とは言え、時間に換算すると5時間ほど短いので
最後までハラハラというわけでもなかったんでしょうけどね。
おそらく、レガシィの記録を上回ることだけを狙って
ペース配分を計っていったのでしょうね。

 

おっとベンツの話ではなく初代レガシィの話でしたね。
当時、富士重工社内ではRecord Attempt の略号で
RAプロジェクトと呼んでいました。
これが後々になって、レガシィRS Type RA という
追加グレードの名称にも繋がっていくんですけどね。

そのRAプロジェクトの出場マシン開発期間でも色々トピックはあって
特にエンジン(EJ型)はまるっきりの新開発ということもあるんですが
そもそも初代レガシィの開発当時からトラブル続発だったくらいですので
RAプロジェクトの中でのアキレス健というか最も難航したところでした。

そんな中でエンジン開発部門のトップの人(baba氏)から
「なんで1日は24時間しかないんだ! 1日30時間にしろ!」とか
(手作業でのバルブの摺合せに時間がかかることから)
「指は10本あるんだ。一度に10本のバルブ摺合せをやれ!」
みたいな迷言も生まれてました。

その時、ボクは端の方でうつむいてクスクス笑ってましたが
もちろん言ってる人も言われている人も冗談ではなかったんですけどね。

 

一方、車体側は何も問題なかったのかというと、そんなことはなく
特にサスペンションのセッティングと空力バランスが悪くて
非常に走りづらく安心感のない状態でしたね。
ただ、STIにいたボクには直接手出しできない部分でしたし
まぁ壊れるわけでもないので走れないこともないですし……

その辺のショップが改造するレベルのシャコタンにしてストロークのないサスで、
一方でリアオーバーハングに(確か)200Lの安全燃タン積んでるので
常に細かいピッチングが発生してフロントの接地感が薄かったです。

最終的にはサスも少しだけバンプストロークが確保されてまぁまぁになり
空力専門家の人も協力してくれてフラットフロア化などもあり
空力バランスも改善されてなんとかそこそこのレベルになりましたけどね。

 

そして、実際の記録挑戦は1989年1月2日~21日の19日間
(準備期間など含めると12月中旬から1ヶ月以上になりましたが)
アメリカ・アリゾナ州にあるアリゾナ・テスト・センター(ATC)にて実施されました。
確か当時ATCは日産とカルソニックの共同所有だったかと記憶してますが
いずれにしても日産が筆頭株主だった頃ですから容易に借用できたのでしょう。
それにATCは主に夏場の高温環境下での冷却性能などの開発向けだったため
冬季での長期占有も許されたのでしょう。

 

Ra_0079
ちなみに、オーバルテストコースは左回りのものが一般的ですが
なぜだかこの時は右回りで走ることになりました。
理由はよく分かりませんが、どうやらATCが右回りとして建造されてたようなので
それに従ったということなのでしょうね。

バンク走行は慣れないと気持ち悪くなったりするものですが
左回りでのバンク走行に慣れた身にはいきなりの右回りも違和感の塊でしたね。
まぁすぐに慣れましたけど。

そういえば、例のディスカバリーチャンネルの撮影の時
SKC(スバル研究実験センター)の高速周回路を逆走(=右回り)で
バンク最上のガードレール間際を最高速付近で走ってくれと無茶ぶりされましたが、
RAプロジェクトの時の記憶が身体に染みついていたのか
特に怖さも違和感もなく走ることができましたね。
もう一人のドライバーの人は相当に怖がってましたけど。

こういうのは単なる慣れだし一度慣れるとそう簡単には忘れないんですね。

 

Ra_
またまた脱線気味になってしまいましたorz
用意したレガシィは基本的には量産・ノーマル仕様ですが……
まだ発売前ですからあくまでもプロトタイプとして改造されています。
赤が1号車、白が2号車、黄が3号車、黒(ガンメタ)が予備車で
ドライバーのレーシングスーツの色もそれぞれの車の色と符号しています。
メカニックは共通でカストロールの緑色のつなぎが支給されてました。

ドライバーは3直体制になっていて1日に2時間×2回ドライブします。
ですから、1直あたり1台の車に2名交代で、3台だと6名必要になります。
さらに、20日近くも休日無しとなると労働基準違反になりますから
そこにプラス1名されて順に休みの人の代わりに走ることになります。
つまり、このプラス1名の人は3台すべての車に順次乗ることになります。
なので、この人のレーシングスーツは赤でも白でも黄でもなく青になります。

というわけで、1直あたり7名×3直+親分で
総勢22名のドライバーという布陣になります。
で、全員が富士重工社員(ボクはSTI応援でしたが籍は富士重工のままです)
なのかというと実はそういうわけでもなくて、
何故だが上州オートクラブ所属の一般人が数名紛れ込んでいました。

発売前の開発車をいちおう秘密裏に速度記録挑戦するというのに
メーカーとはまったく関係ない(親分とは関係があるんでしょうが)人が
ドライバーとして参加するなんて常識ではあまり考えられないんですが……

もちろん、ドライバーの高度なドライビング・テクニックが勝敗を決するような
サーキットレースやラリーなどの競技であれば高額の報酬でもってそのような
いわゆるワークスドライバーを雇うこともあって当然のことですが、
いくら240km/hほども出すとはいえそれなりに整ったコースでの走行なので
ある程度の経験と基本的な運転技術があればまぁ誰でも走れることです。
だから、社員ドライバーが不足していたわけでもなんでもないんですけどね。

彼ら社外ドライバーを幾らで雇っていたかは知りませんが
1ヶ月ほども拘束するわけですからそれなりの報酬は出していたのでしょう。

ちなみに、社内規定で「自動車レース出場者に関する規定」というのがあって
それによると公式レース本番では50km毎に500円の手当が貰えることになっていて
この速度記録挑戦はFIA公認の自動車競技なんだから
ボクら社員ドライバーもそれを貰えるハズだと主張したのですが、
結局貰えませんでしたね。

3台とも完走すれば、一人で最終的には14,000km強走ることになるので
14万円ほどの手当になるのですが、
そのくらい払ってくれても良かったのになぁと思いましたね。
というか、社内の労働規定で定めていることなのに支給しないというのは
本当は法律違反なんですけどね。

 

で、ボクは1直(早朝から夕方)の青の人でした。
いちおう、青の人は全部の車に乗るわけなのでその3台の違い、
好不調を比較して確認する役目も担うわけですが
そんなことより青の人は損な役回りだなぁと思ってました。

というのも、正直3台とも最後まで走りきれるとは予想していなかったので、
赤・白・黄の人だと途中から走らなくても済む可能性があるのに
青の人だと3台ともリタイアするまで走らなくちゃいけないので
嫌だなぁというか面倒臭いなぁと思ってたわけです。

そう、RAなんて観客・観衆やテレビ中継の聴衆の目前で
熱狂されるような競技ではないですから
こんなに時間と人とお金を掛けてやるなんてくっだらないなと思ってましたし、
そのために2時間×2回×約20日間もただ車に乗ってただただ睡魔と闘いつつ
同じところをグルグル回ってるなんてとっても苦痛だったんですね。

 

さてさて、ここから面白いトピックスを書こうとしたのですが
気づいたらその前段が随分と長くなってしまいましたから、
今日の記事は一旦ここまでとして続きはまたということにさせていただきます。
けっしてもったいぶっているわけではありませんのでご理解くださいませ。

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コメント

続きも楽しみにしています。

投稿: よっさん | 2018-06-23 18:41

>よっさん

なるべく早く続きを書きあげたいと考えてますがなかなか筆が進みません。
というか、タイピングが進みませんと言う方が良いのかな。

投稿: JET | 2018-06-23 21:11

それでも当時(今もか?)くすぶっていた私からしたらずいぶん羨ましく思ったモノでした。

実際にはいろいろあったんですね。

投稿: TOMO | 2018-06-23 21:43

>TOMOさん

一部お祭り気分で浮かれていた人や
たまたま参加することになったのに勘違いした人がいたのも事実ですね。

ボクはそういうのが見えちゃうとなおさらシラケちゃう性格ですから
正直その手の人たちを冷やかに見てましたね。

そういう意味も含めてその時も(その後も)ボクはくすぶってましたよ(笑)

投稿: JET | 2018-06-23 22:34

表に出せない話、いろいろあるんですね。
生産技術だと全く無縁な世界なので、貴重なお話楽しませていただいてます。

投稿: はら坊 | 2018-06-24 11:24

>はら坊さん

製造部門でも検査捏造などいろいろ表に出せなかった話がある
どこぞの企業もあるわけですけどね。。。
やっぱり企業風土ですかねぇ。

投稿: JET | 2018-06-24 17:17

わらかしてもらいました

投稿: nasa | 2018-06-25 20:23

今でも語り継がれる伝説が誕生する裏で、こんなことがあったとは。
記録達成までは地味なチャレンジだったかもしれませんが、今でもレガシィ乗りの誇りの一つです。
続きも楽しみにしています。

投稿: ぶらっと | 2018-06-25 21:25

>nasaさん

今だから笑えるんでしょうけどね。

投稿: JET | 2018-06-26 04:51

>ぶらっとさん

失敗を恐れずに公に宣言して多くのメディアの前で
チャレンジすれば良かったのでしょうけどね。
ただ、そうしたら実際にはヤバかったんですね。
それはまた続きで報告しましょう(笑)

投稿: JET | 2018-06-26 04:55

続きが気になります!
初代レガシィはアルシオーネっぽいくさび型&大人の雰囲気溢れるクルマという印象でした。

投稿: 並さん | 2018-06-26 23:11

>並さん

ワールドカップ観戦で忙しくて続きがなかなか書けません。
そのうち書きますので気長にお待ちください。

投稿: JET | 2018-06-27 05:37

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