文春文庫「『空気』の研究」を読了
著者は大正生まれですから、大戦下での「空気」というのがよくでてきます。
おそらく著者が「空気」というものに興味を持ったのも
この大戦下での「空気」というものに接したからだったのでしょう。
ボクの両親は昭和一桁生まれで過去の大戦時は学徒だったのですが、
ボクが子供の頃にその大戦についてあれこれ話を聞いたり
ましてやそれについてあれこれ会話をしたりした記憶はほとんどありません。
空襲やら学徒動員やらの話が断片的に出たり
父親が酔っぱらった勢いで軍部に籍を置いていた頃の話を
これまた断片的に饒舌に語っていたくらいだったんですが、
一度だけ何故日本はあんな悲惨な大戦に参戦してしまったのかについて
議論がおよんだ時がありました。
その時の答えがやはりその時の日本の「空気」が…
そんなようなものであって、
それにもボクは違和感・反発感を持った覚えがあります。
その時にその「空気」を両親がどのような気持ちで
口に出したのかは推測しかねましたけど。
本書の内容に戻りますが、この本ではその「空気」だけでなく、
「水」の研究も書いてあります。
ここでも液体のH2Oとしての水ではなく
「水を差す」とかに使う「水」のことです。
その後に日本的根本主義(ファンダメンタリズム)についてと続きます。
ボクは、現役サラリーマン時代ではどちらかと言えば
「空気」に流されるのは嫌いでその「空気」に反発して
「そんな水を差すようなことを言うな!」と怒られたりするような人間でしたから
これらのテーマにはかなり興味をそそられました。
ただ、この本では、
現代ではあまり使われないような平易でない言葉遣いや漢字・仮名遣いが多く
そして禅問答みたいな哲学的な長い文章が続いたり、
過去の事件や哲学思想を例に出してもそれらをよく理解していない
ボクみたいな人間には例えが例えになってなかったりして、
まぁ正直いってよく理解できませんでした。
一例として後半である程度まとめ的に書いてある部分を抜粋してみますと、
(以下抜粋)
それは一言でいえば空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を
全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常性の中に解体吸収しつつ、
その表面に出ている「言葉」は相矛盾するものを平然と併存させておける
状態なのである。それが恐らくわれわれのあらゆる体制の背後にある
神政制だが、この神政制の基礎はおそらく汎神論(バンティズム)であり、
従ってそれは汎神論的神政制と呼ばれるべきものである。
そしてわれわれは、そういう形の併存において矛盾を感じないわけである。
これがわれわれの根本主義(ファンダメンタリズム)であろう。
(抜粋終わり)
とまぁ、全編こんな感じでともかく難解でした。
ある程度理解できた部分としては、
「空気」も「水」も日本だけにあるのではなくどこの国でもあるが
その「空気」の支配を許すのは日本だけともいえ、
その「空気」も「水」も結局は理論的科学的なものからではなく
その場の情緒的(著者は臨在感と表現)なもので決まる点で同一であると。
だから、日本でいう本当の「水を差す」というのは
理論的科学的に正しいことを主張することではなく
それまでとは違う正反対の「空気」を作りだせなければならないのですね。
だから、ボクは「空気」に反論しても「水を差す」ことは失敗して
「水を差すような」余計なことをしたと怒られるだけだったわけですな(笑)
理解できなかった部分の多い本でしたが、著者の切り口や目のつけどころ
また背景にある多彩な学識などかなり興味を惹かれますから
また何年か後に読み直してみようと思います。
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